機能性重視の現代人たち。

私が外出するとき、
ここ最近ほぼ100%の確立で雨が降ります。

こんばんは。

今日は、
哲学分野の授業を受けた時に扱ったトピック
から考えたことを書いていこうと思います。

哲学、といっても気軽な気持ちで読んでほしいです。

ちなみに、私は哲学専門ではありませんので、
多分に誤った解釈等が含まれていると思われます。

予めご了承ください。

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「あの人って役に立つよね。」
「全然使えない後輩がいてさー。」

これら、よく聞きませんか?

現代の人は、多くの場合、

能力がある人間のことを「つかえる」と言い、
能力がない人間のことを「つかえない」と言います。

でも、よくよく考えてみると、
ちょっと変ですよね。

人間なのに、
使えるとか、使えないとか。

人を「道具」のような扱いをしていいのでしょうか。

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その昔、ハイデガーという哲学者がいました。
授業で取り上げた人物のうちの一人です。

気になる方は、ぜひ調べてみてください。

ここでは、私が彼の思想を取り上げた授業内で学んだことと、
それに関連して私が考えたことを融合させてお話していきます。


ハイデガーは、
社会の中に存在する他人を
「代替可能な道具」として定義?しているそうです。
(彼の考えの中では、
他人は、肩書や能力などの機能を持っているとされています。)


機能は代替可能なのです

例えば、鉛筆。
「文字を書く」という機能だけに着目すると、
別に鉛筆じゃなくてもいいんです。
万年筆、毛筆、ボールペン、チョーク.....


お判りでしょうか。
そのものの機能だけに注目して考えると、
他にその機能を果たせるものって、今じゃいくらでもあるんです。


鉛筆を人間に置き換えてみましょう。
人間の能力=機能だけを見てしまうとき、
彼らの存在価値・意義って、いったい何なのでしょうか。

何なんでしょうね。
わたしにはまだわかりません。

でも、今の社会って、
何ができるか
で、進路や就職が決まったりしている、
そういう印象を私は持っています。

はたして、
私たちは人間らしく生きてる!
といってよいのでしょうか。

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今の教育現場では、
個性重視、とか
発想・思考力伸長、など
その人の人間的な部分を伸ばそうと試みているように
わたしには見えます。

しかし、私にとっては、
学校などは社会に出て「使える」人間になるための
訓練施設(のようなもの)に、思えて仕方ないんです

読み書き計算、できなければ社会で通用しません。
よほど突出した能力があるならまだしも......

「使える人間」になった人に、
その人の「人間らしさ」って本当にあるんでしょうか。
その人の個性は、本当になくなってないのでしょうか。


人間が人間らしく生きる、
このことが難しくなったのは、

人が人を「使える・使えない」
で判断するようになったから


なんじゃないかなって、私は考えました。

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尻の青い大学生の、
生ぬるい思考です。

どうぞ、
こんなもんかとさらっとお読みくださいませ。

余談ですが、
新調したキーボードの調子が良くなくて、
全然文字が打てません。

路頭に迷っている筆者なのでした。

では。

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