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自由曲線

小学生だか中学生だかの国語の教科書に、自然のなかに直線は存在しない、という話が載っていたのをずっと覚えていて、時折思いだす。

たしかその著者は、外国の自然豊かな場所で何年か暮らし、久しぶりに日本に帰ってきたら、人工的な直線と直角が目にビシバシと飛び込んでくるようになった、自然のなかには直線や直角はなく、それらは人間が創り出したものだ、というようなことを言っていたと思う。

私の地元は、通った小中高すべての学校の校歌に「大山阿夫利」という詩が入るくらい、山の稜線がよく見えるところだ。坂が多く、地獄坂と呼ばれる坂もいくつかあるほどで、街全体がまるでジェットコースターの道筋のようにうねっている。

もっとも、それに気付いたのは東京で一人暮らしを始めて数年経ってからだ。遠方に遊びに行ったときや、たまに地元へ帰ってきたとき、山の稜線や街の形状に「はっ」とするようになった。

それ以来、自然の描くいびつさやでこぼこに、目や気持ちが癒やされるような気がして、積極的に取り込むようにしている。


ある日、ひとりで公園に向かった。
そのころ私の内面は、憎しみや怒り、それとの葛藤が渦巻き混沌としていて、どうしようもなかった。途方に暮れて、公園に行ってみることにしたのだ。

「いつもの場所」を目指してずんずん歩く。地面に垂れ下がるほど伸びている枝の内側に入り、レジャーシートをめいっぱいひろげ、即座に荷物をシートの四隅に置いて靴をぬぐ。どーんと大の字になる。

とたんに空に広がるいくつもの枝葉の層と、枝葉の間からのぞく青が視界を埋め尽くした。

背中に感じる地面のでこぼこが、不思議とからだに馴染んでいく。真っ平らな床に寝転がるより、ずっとずっと自然だ。


何度か、この場所でパークヨガをしたことがある。
平らな床の上よりも、地面の上でヨガのポーズをとる方が、不思議と安定する。同じ姿勢を何分も保っていられそうだ。

考えてみれば、人間のからだは左右均等にできていない。背骨も湾曲している。関節は伸ばすためでなく曲げるためにある。関節をぴんと伸ばしすぎると負荷がかかり、力んでしまう。関節をゆるめれば、周辺の筋肉が働いて安定感が増し、力まない。
でこぼこの地面の上にいるだけで、自ずと関節がゆるみ、力みが外れるのだ。自然の描く自由曲線に、からだの方が適応していく──。



2時間ほど経ち、風に冷たいものが混ざりはじめた。そろそろ帰ろう、と立ち上がると、少しすっきりしていた。「あ、回復してきたな」と思った。

誰もが内包するいびつさを、まるで抱きとめるように大地は下から支えあげる。それでよしと言うように、木の枝葉が頭上で揺れ、山はどんと構えて裾野をひろげる。そのすべてを、空がまるく内包する。


憎しみや怒りも、持っていていい。他人より劣っていたり欠落していたりするように思えるいびつさも、あっていい。
真一文字に結んだ口元がゆるみ、私は歩き出す。



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