第三部 さあちゃんを見送った日

ここでは、2023年3月31日のことを書いていく。
当然第一部から読んでもらいたいが、ここから読む人のために基本情報を以下に書く。

さあちゃん→私の母(61) くも膜下出血が再発し、2023年3月24日入院。同病気を8年前にも発症。倒れる直前まで元気で、整骨院に運転して行って帰ってきた。
私→大学2年生(21) 父と犬との二人と一匹暮らし。
Y姉ちゃん→さあちゃんの2番目のお姉さん。さあちゃんは4人兄弟だが、一番仲が良かった。
Nちゃん→Y姉ちゃんの娘(私の従姉)。

朝の時間は穏やかだった。
血圧が50~80ぐらいだったが、まあ安定していた。
この日は看護師さんに言われ、さあちゃんの手足を一緒に洗った。
ビオレの泡をビニールに入れたのとぬるま湯を持ってきてもらい、ビニール手袋をして、さあちゃんの手足を洗うのだ。
このころには面会しても号泣しなくなっていた。状態が穏やか(手術すらできていないし、本当は穏やかなんて言える状態ではないが)だったのもあるが、母の危篤状態に慣れてしまうという人間の本能が悲しかった。

そして変わりなく病院を去り、さあちゃんが落ち着いているからということで整骨院に行った。

この整骨院はさあちゃんをはじめ、私も父も通っていて、家族ぐるみで仲良くしてもらっている。しかしさあちゃんがいないと施術中がとても静かで(整骨院の先生には、父がさあちゃんの24日の状態を聞くために全部事情を話している。そんな状況で話なんかできないよね)、電気を当てられながらかなしかった。

14時半頃、施術がちょうど終わってお会計をという時、病院から電話があった。私は父に代わって会計をし、そのまま病院へと向かった。

病院に行く道中、父が本当に焦っていた。
「なんて言ってた?」と聞くと、「もう消え入りそうだって〇×(父は活舌が悪い)」と帰ってきた。
病院まで1時間ほどかかる。渋滞の道の中、「さあちゃん、今行くからね」「もうちょっと待っててね」と必死で祈った。震えが止まらなかった。

今日2回目の面会で助かった。
というのも、1回目の面会だと、新型コロナウイルス関連の書類を書かないと面会できないのだ。
自分の意識をなんとか保ちながらHCU(ICUとほぼ同義)に向かった。


HCUのベッドは患者ごとにカーテンで遮られているのだが、患者の状態がすぐわかるように、天井付近に血圧・心拍数などが表示されるモニター(よく医療ドラマで0になって、ご臨終ですとか言われるようなあの画面)がある。一瞬の間にそれを見て愕然とした。

心拍数がまず低い。血圧かと思うぐらい低い(60ぐらいだったかな?)。
そして血圧が30を切っていた。

カーテンを開けると、さあちゃんの顔色が明らかに違っていた。
朝までの穏やかな顔とは明らかに違った。土色と赤紫のあざみたいな色だった。
「さあちゃん!」
私と父で必死にすがった。
言いたいことはいっぱいあるのに、涙で全然言えずに「さあちゃん」と必死で呼んでいた。
嗚咽を上げながらまあまあな音量でさあちゃんを呼ぶ私の背中を看護師さんがさすってくれた。マスクが涙と鼻水でべとべとになり、新しいマスクをもらった。
看護師さんがさあちゃんのお母さん(Rばあちゃん)と兄弟(上からS姉ちゃん、Y姉ちゃん、M兄ちゃん(と言っているものの、M兄ちゃんはさあちゃんから見て弟))に電話を入れた。父も電話をした。

血圧が20を切った。
生きているうちにさあちゃんに伝えようと思った。
この時から、私はさあちゃんに「ありがとう」と「がんばったね」を言った。父にも「(今のうちに)伝えたいことがあるでしょ」と言って、感謝の言葉を言わせた。何かの反射かもしれないけど、面会しているときにいつもあったみたいに、涙がさあちゃんの目に滲んでいた。

Y姉ちゃんと連絡がついた。
お医者さんが来てくれて、心臓マッサージをするかと聞いた。
Y姉ちゃんが来るまではと言い、かねての「延命治療について」みたいな書類のとおり、手のみで心臓マッサージをやってもらった(最終手段として電気ショックがあったらしいが、これはあざがつくし本人の体にもかなり負担がかかるので、お医者さんと父が話し合ってやめる方向性になった)。

Y姉ちゃんとNちゃんが来た。
二人が必死にさあちゃんの名前を呼ぶ。
「こっちだよ!」とか「がんばれ!」とか言っているのを聞いて、もう泣いてさあちゃんの腕を握る以外なかった。
「まだ手があったかい」って言っているのが聞こえたけれども、自分が握ったせいであったかいとはとても言えなかった。

もうモニターは見れなかったし、看護師さんが設定をいじって警告音的なのが出ないようにしてくれていた。
あんまり記憶がないが、徐々に心拍数0の時がちらほらあるようになった。少し時間が経ってから、お医者さんがさあちゃんの瞼をぺらっとめくってライトを当て、死亡の確認をした。
2023年3月31日、15時59分だった。

父と一緒にありがとうございましたと頭を下げ、看護師さんがこれからの流れが書いた紙を持ってきた。葬儀屋さんをすぐに決めなければいけないらしい(一回さあちゃんが危ない時に葬儀屋さんの候補を絞っていて本当に良かった)。そしてさあちゃんの管等を抜いた後、私は看護師さんとさあちゃんを綺麗にすることにした。少しでもさあちゃんの死を実感したかったから。

さあちゃんを待つ間、彼氏(さあちゃんと生前会っていた)に報告をし、RばあちゃんとS姉ちゃんが到着したというのをY姉ちゃんに聞き、一緒に会いに行った。S姉ちゃんには言えたものの、Rばあちゃんにはその時言えなかった。人が少ない待合で、私たちだけどう見えていたのだろう。

すぐに看護師さんに呼ばれた。さあちゃんの体を洗っているところだった。肌のありとあらゆるところから血色が消えていた。あまりいい話ではないが、乳頭が色を失っていたのにとても驚いた。
私は髪の毛を洗うのを手伝った。この時さあちゃんの髪を束ねていたヘアゴムをこっそり持っていって、父に見せたら欲しいと言われたからあげた(私には大切な恋人や友人がいるが、父には誰もいないのだ)。泡を持ってきて髪をしゃかしゃかし、ぬるま湯で流す。さあちゃんがマネキンみたいに見えた。頭の傷口は意外ときつくなかった。おむつを外して綺麗にしているときだけは、さあちゃんのためにもあまりみないでおいた。そしてドライヤー(HCU専用のドライヤーがある)で髪の毛を乾かし、くしで梳かした。

そして、看護師さんとさあちゃんに軽くお化粧をした。
エンゼルなんとかというメーカー?があるらしい。
送るために綺麗にするのは知っていたが、葬儀屋さんでするものだと思っていたし、まさか化粧水乳液からするとは思っていなかった。
顔色がそこまで良くなかったから、ファンデーションが綺麗につかなくてかなしくなった。でも看護師さんが別のを持ってきてくれ、少しマシになった。アイシャドウをし、口紅で頬と唇に血色感をプラスした。さあちゃんは眉毛が薄かったので、濃いアイシャドウで眉毛も描いた。看護師さんが塗った口紅の色が本当に合ってなく見えて、こんな時だけどパーソナルカラーについて考えた。

お化粧をしている最中に、RばあちゃんとS姉ちゃんが来た。
Rばあちゃんの様子ったらなかった。
「さあちゃん」「あんたは先にいったのね」と涙を流していて、親よりも先に逝くことの重さを知った。

病室をでたら、さあちゃんの兄弟+兄弟の夫みたいにわらわら人がいた。
とりあえず看護師さんがその人たちを一階に案内し、私は父が葬儀屋さんを決めたのかを聞きに行った。

葬儀屋さんが17時半頃に来るとのことで、さあちゃんを大きなエレベーターに乗せようとしていたところ、下から葬儀屋さんがきた。葬儀屋さんと看護師さんでさあちゃんを移し、真っ白の布と真っ白のレース付きの顔を覆うやつでさあちゃんを真っ白にした(私は真っ白なのに驚いていた。黒のイメージしかなかった)。そして大きなエレベーターでさあちゃんを一階に連れていき、残りの親戚が顔をみることができた。

葬儀屋さんの車に乗せる直前、看護師さんとお医者さんと親戚と私と父で円形になり、ありがとうございましたとお礼を言った。さあちゃんがいなくなる時からずっと優しかった看護師さんが、「これから大変だろうけどがんばってね」と私に声をかけてくれた。そして車を見送って、私と父は家に帰った。今晩だけはさあちゃんを自宅に帰らせることにした。

余談だが、この時点で死亡届を葬儀屋さんに渡さないと、何らかがあった時に何らかの罪に葬儀屋さんが問われてしまう可能性があるらしい。見送った後に、父が死亡届を持ったままなのを看護師さんが気づいて、すぐ渡すように言われた。

葬儀屋さんは一足先に到着していた。
さあちゃんは真っ白の布にくるまれており、その状態で苦しくないんだなとぼんやり考えた(私は閉所恐怖症である)。
父が急いで父の部屋を片付け、取り急ぎさあちゃんを横たわらせることができるスペースを作った。敷布団以外は全部葬儀屋さんが用意してくれた(この時は掛け布団、枕、線香セットだったっけか)。

私のイヌは家族以外にはギャンギャン吠えて噛みつこうとするので、取り急ぎイヌを部屋に閉じ込めた(ごめんね)。そして玄関が狭いのでベッドを外して担架のようにしてさあちゃんを葬儀屋さんと父で部屋に運ぶのを見ていた。

「さあちゃん帰ってきたね」「さあちゃんの好きな家だよ」
とかなんとか父がさあちゃんに声をかけていた。正直実家が好きなのは父だろとこの時は思った。今思えば、さあちゃんは実家と呼べるものがない(実家がよく引っ越しをしていたため)ので、家を建てた時「実家ができたって思って嬉しかった」なんて言ってたっけ。

さあちゃんを布団に横たわらせると、次にドライアイス担当の人が来て、処理をしてくださった。その後この後の簡単な流れを自宅で職員さんが説明してくださった。

説明にあった内容としては、
・葬儀の日程の希望
・葬儀の規模(大ホール、中ホール、小ホールのどれでするか)
・懇意にしているお寺さんはいるか(父の実家がお世話になっているところに頼んだ)
・明日からの流れ(死亡届を葬儀屋さんが持って行ってくれて~等)
・(遺影の選定)←これだけはここで言われたか次の日に言われたか曖昧
等々だったはずである。

とりあえず具体的な話し合いは、別の担当の人が明日の午前中来て行うということだった。本当に葬儀というのはバタバタである。

話し合いが終わり、もう19:00とか20:00とかを回っていた。
とりあえず食べないと明日からが大変なので、父がほっともっとでお弁当を買ってきてくれた。ただ当然食欲がなく、何か軽いものをと言ったところ、野菜炒めとごはんを買ってきてくれた。なんとか全部食べた。

21:00ごろにKばあちゃん(父の母)とE姉ちゃん(父の姉)が来てくれた。イヌは抱いていた方がどうやらおとなしいと分かったので、イヌを抱っこして迎えた。

さあちゃんを見るなり、御年90を超えるKばあちゃんは小さい体をさらに小さくして泣き崩れた。私の手を握って、「あんたも大変だったね」と泣いていた。私も泣いた。線香をあげて二人は帰った。

みんないなくなって静かになった家で、父が生前さあちゃんが好きだったコブクロのCDをかけようと言った。さあちゃんの車にCDを取りに行き、4枚組のアルバムを1枚ずつ全部一晩かけて流した。

さあちゃんはいなくなる直前の顔色と違い、本当に穏やかな顔をしていた。
実家で布団に横たわっていると、かつてよくしていたみたいに本当に寝ているみたいだった。でもさあちゃんの頬やおでこに触れるととても冷たかった。二の腕とかも触ってみたけれど、確かに人の肉だが何かが違うのだ。水分量とか弾力とかなにかだろうか。

イヌはというと、最初さあちゃんをさあちゃんとして認識できなかったのか、一瞬ヴ―とうなった。しかし何かに気づいたのか、さあちゃんのにおいを一生懸命嗅ぎだした。でも誰もいなくなってもそこにいるとかいうことはなく、父と私がいるところにずっとひっついていた。

その晩、棺桶にいれるものをさあちゃんの部屋から探した。
すぐ目に付くところに、私が母の日に渡した大きめの箱があった。そこには、さあちゃんがかつて合気道をやっていた時の会員証や、ジャッキーチェンのトランプや、よくわからないマスコットや、写真や、私が母の日に渡した手紙が入っていた。決定的なのは、さあちゃんが懇意にしていた人の名前と電話番号が書かれたメモが入っていたことだった。生前さあちゃんが身辺整理をしていたことを知っていたので、これはもしもの時のためのものだろうなとピンときた。そのほかにも、さあちゃんの部屋から見つかった手紙等を棺桶に入れる用にまとめた。

ここで皆さんに伝えたいことだが、本当に身辺整理を行う・行わせることは重要である。さあちゃんのようにある程度目立つところに箱を置き、そこに大事なものと大切な人の名前を書いていてもらえると、本当に残された者としては有難い。こっちとしてはなるべくその人の意に沿った式を行いたいのだ。
ただ、4月4日時点で遺書が残っていないのがとても悲しいことである。さあちゃんみたいに急に倒れ、意識が戻ることなく亡くなっていくことを考えると、身辺整理をする際に手紙を入れておくのを強くおすすめする。あと生前棺桶に入れてほしいと言っていた、さあちゃんとさあちゃんの父との手紙がどうしても見つからなかった。私が読めということなのだろうか。

こんな感じで意外とバタバタしていて、私は疲れに負けて眠ることができた。父はさあちゃんのそばを離れなかったし、おそらくほぼ寝ていなかったと思う。

お葬式というのは本当にタイトなスケジュールでバタバタと執り行われる。
私と私の周りの人が体験したケースを見て、少しでも参考になる人がいればと思う。
本当に大事なのは、元気な時に少しでも、冗談っぽくでもいいから、もしもの時にどんな葬儀にしてほしいかを話しておくことである。花・音楽・規模・棺桶の中身等々。

第四部、さあちゃんを送り出す一日目
に続く。





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