好きな本②

好きな本を紹介します。(昔に書いた文章です)

ダウンタウンの漫才をYOUTUBEで見た。ビデオのような画質は少し懐かしくて流し見をしようとしていたのに面白く見てしまった。いつのものだったのかを確認せず消してしまったけれど、おそらく僕がまだ子供のころのものだろう。それなのに古さを感じない。今の若手漫才師のネタを見ているように思える。
そんな感覚が時々ふわっとある時がある。過去が今に追いつくような、昔にあった出来事が今の出来事と変わらず存在するような。
それは自分が今どこに立っているのかとかを再確認するような感覚に近いかもしれない。渋谷のスクランブル交差点にすれ違う人たちにそれぞれの人生があることに押しつぶされてしまいそうになっていた時期がある。自分が自分でないような、自分が存在していないような、ずっと生きるって何だろう的な思考。それは中学生のころ、高校生のころ、大学生、ニートの時までずっとあった。
高校生のころに宮崎誉子「世界の終わり」という本を読んだ。当時の最新刊で本屋で買ったような気がする。覚えていない。ただライトノベルから小説を読もうと思っていたころに出会った本で、帯の言葉に惹かれて買って読んだ。音楽のような文字が並んでいて、刺激的だった。自分の憧れる言葉が手のひらに転がって落ちていくような感覚があった。生きることを疑問に思っていた自分の中にある言葉にできない感情をいととも簡単にかつPOPに文章として目の前存在していた。
小説は短編集でどの主人公も生きることに疑問を持ちつつも働き、波に溺れるようにもがいていた。初めて読んだ時には労働がまったくわからなかった。
学生でこんなにつらいのに、これからさらに辛いことが起きるのかと思った。生きることとはなんだろうという疑問はどこにも答えはない。今ならばそう考えることはできるけれど、経験も知識もない僕には自己啓発のように文章がどんどん響いていた。短く会話ばかりで、これが文学か!と憤る人もいそうな文章なのに、僕には文章の一つ一つに奥行きを感じ響き続けてくれた。引用されたミッシェルガンエレファントの「世界の終わり」の歌詞さえ小説の言葉に思えた。書かれた当時はノストラダムスの大予言で世界は終わるかもしれないとか不況とかフリーターが増えたりとか、自由ってなんだろうみたいな閉塞があったような気がする。その時はまだオナニーすら知らない子供だった僕には宇宙の外のようなことなのに面白かった。
今はもう小説の中の主人公の年齢を軽く超えてしまったけれど、時々読み返しては昔の自分を思い出す。生きることに疑問に思いすぎていたなとか、親戚のおじさんが見ないうちに大きくなったなあと思うように過去の自分を想う。僕の中では詩のように感じる小説だったのかもしれない。今の絶望は大抵この後も続くけれど、まあ大丈夫、ずっと辛いけれどいいこともあると教えられたそんな小説。今読み返してもまあまあ面白く読めてしまう。今日見たダウンタウンの漫才のように昔は簡単に今に追いつく。


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