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あえて漢字で「障害者」について語りたい。僕が提唱する『全人類障害者論』について。

障害者って、なんだろ。

僕はもともと教員になるために大学に行ってて、一応「障害者」については勉強してて、なんで漢字で「障害者」ではなくて「障がい者」と表現されるのかについても勉強したんだよね。


「害」


この漢字がイメージが悪いから、ひらがなになってるみたいな話だったと思う。大学卒業したのが4年前くらいだから正確には覚えてないや。

まあ確かに、この気持ちはわかる。

行動経済学を勉強したときにわかったことなんだけど、こうやって多くの人の目に触れるテキストだったり、映像だったりするところを『多様化(?)』してあげると、世間一般の常識が塗り変わっていくんだってさ。

だから、アリエルのキャスティングが白人ではなくて、黒人だったり、パリオリンピックの開会式があんな感じになってたりすると思うんだけど・・・


個人的には、こういう『配慮』があんまり好きではない。


配慮って、配慮する側が上のイメージがあるからなんだよね。

そして、「配慮ができてる自分」「多様性を尊重してる自分」に酔ってる人たちがどうしても気持ち悪くて、それでちょっと嫌悪感を感じてしまう。

てか、「嫌悪感を感じる」ってありなのかな?

なんか二重で表現が被ってる気がするんだけど、そうではない気もしていて、ライターでありながらここはいつも迷ってしまう。

正しい表現がわからないぜ・・・・・・・


ということで、話が逸れたんだけど、それが嫌だって話。


だからこそ、僕はわざわざ「障害者」と書くよ。

わざわざ配慮をしないし、そもそも「害」がないんだから、「障害者」と呼んでいたとしてもいいと思う。そういうネーミングなだけだし。

てか、「害を与える人」ではなくて「障害を抱えている(自分が害を受けている側)」という意味なんじゃないの!?知らんけど。

政府とか、世間とか、大きな影響を与えるものでは「障がい者」と書いた方が、未来を考えるといいと思うんだけど、単なる僕個人のnoteでは「障害者」と書かせてほしい。



それに、僕も障害者だしね。

てか、生きている人間は全員障害者なのよ。


僕は、「全人類障害者論」を唱えようと思う。


いま言われている「障害者」の定義って、「現在の社会において、支援が必要な状況にある人たち」のことを指しているんだよね。

で、ここで「現在の社会において」の部分のフォーカスしたい。


・・・・・・これって国によって違うし、村によって違うし、コミュニティによって違うし、部族によって違うし、時代によって違うものだよね?


なのに、一概に誰かのことだけを「障害者」って呼ぶのって違くね〜〜〜?

って思うわけですわ。


・・・・ここで突然ですが、僕の話をしますけど、僕ってお酒がめちゃくちゃ大好きで、酒を飲むと声がめちゃくちゃデカくて、ついでにおしゃべりという「こいつと飲み会するとだるい」と言われるタイプなんですよ。

それがいいって言ってくれる人もいてくれ(小声)


これって、時代によってはマジで障害でしょ。


お酒が禁止されている時代だったらどうだろう。お酒を飲んではいけない宗教に入っていたらどうだろう。そういう国だったらどうだろう。

お酒が好きすぎてやめられなくて、アルコール依存症になるレベルではないんだけど、いま臨時ニュース速報が入ってきて「日本でお酒が全面的に禁止になりました」ってなったら、普通にやめられないと思うよ。


あ、それにさ、あなたはハブられたことってある?

何かしらのコミュニティで仲間外れにされたりしたこと。


まあ、当たり前のように僕はあるんだけど、これって「そのコミュニティ社会のなかで弾かれるべき存在だったから」という理由でハブられてるのよ。

いじめとかのケースを除いてね。

全人類が僕のことを好きになることなんかなくて、それと同じように全人類が僕のことを嫌いになることはないと思う。あまりにも酷いことさえしなければ、これって全員に当てはまることだと思うんだよね。


そう考えると、誰もがどこかの社会でハブかれる要素を持ってるのよ。


つまりね、全員どこかの社会では支援が必要な状態にあって、それって定義的に言ってしまえば「障害者」であるということ。

なのにさ、なんで一丁前に「配慮」とか言ってんだろ・・・・・・

って思ってしまうわけですね。


「多様性に配慮してる自分、素晴らしい〜〜〜〜〜〜!!!!!」


いやいや、あなたもマイノリティなのに、いつから自分が「多様性を認める側だと錯覚していた?」という感じになってしまうの。

・・・・ちなみにこれは『正欲』という小説を読んで思ったね。

多様性に配慮してる自分が素晴らしいって、酔っちゃってるのってどうなの?という疑問視は、この小説から始まった。ちなみに映画『正欲』の主題歌では泣いた。なんか知らんけど泣いた。


このnote、ゴールがないのよ。


まあいいや、無理やりまとめますね。

僕が言いたいのは、全人類が障害者なんだから、自分が「配慮する側」とか「多様性を認める側」という錯覚はもうやめにして、変な気遣いとか全部全部全部全部全部全部忘れて生きていっていいんじゃね?って話。


車椅子に乗ってる人が「助けて」って言ったら、助ければいいくらい。

僕はちなみに、広告関係の知識があまりにも乏しいから、広告代理店の人に「助けて」って連絡して、助けてもらうことにしたよ。

なんか、それくらいライトに考えていい気がしてるんだよね。

・・・・・まあ、この考え方もいつか変わるのかもしれないけど。


まあ、みんなも障害者同士がんばっていこ。


みんな絶対コンプレックスって抱えてるけどさ、もうそれ障害!って認めちゃって、助けてほしかったら助けを求めて、自分が人を助けられるところで助けたらいいんじゃん?

ちなみに僕は、お酒をやめられないことを「これもう障害かもね!」って認めちゃって、妻の支援で生きてる。妻に宣言して、妻に嫌われないために、週8回飲んでたお酒を、週2回にくらいに減らしてる。


ラクに生きていこ。

助けてほしかったら、「助けて」って言お。


僕たちは結局、みんな障害者で、どこかの社会には馴染めなくて、支援が必要なんだから。完璧になんでもできる人なんていないんだから。


助けてもらって生きていこ。

完璧じゃなくていいよ。

どれだけ頑張っても完璧になれないから。


助けてって、言いまくっていこ。

それでいいじゃん。

助け合って生きていこ。





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