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冬やすみのこころ

クリスマスとかお正月を前にして、誰もが何か思う。

少々堅苦しく、かつ理論がきちんと通っているのかすら解らないが、自分なりの考察を記しておきたい。

いじめ問題が流行り病で少し解消された(接点が少なくなる)節があり、元の生活に戻り始めるとやっぱり他人との接点も増えた矢先に事件を新聞やニュースやnoteで知る。

いじめ問題は虐めをする事は駄目とか、虐められる方にも問題があるとか、どうしても対人に向きがちだが、自分の小さな小さな経験から得た考えは、寧ろ今の時代こそ対人では無くて自分に目を向けるという力が無いと事件の加害者・被害者になるのでは?と思いはじめている。

強者?の理論では「虐められる側も何かしらしている。虐められないようコミュニケーション能力を上げろ」に終始している感も否めないし、また今までもそんな風潮が感じられていたように思う。「誰とでも仲良く」が良い例だと思う。「誰とでも仲良く」とは、仲良くできる材(その関係で有効な能力など)をもつ人ができる行為なのだと思う。これは【強者の目線】と言える。ところが新聞などの報道で加害者側の酷い行為が文章化されると今度はそこから逆転して「虐める側にコミュニケーション問題がある」という、材を持たない所謂【弱者の目線】と言える意見が出てくる。最近ではこの二つが絶えず極論で出てきている気がしてならない。

ここ一年自分が人付き合いで久し振りに悩んだ時、一般的なイメージのコミュニケーション能力を磨くより自分が事象に対しどう思うかが大事なのでは?と考え始めた。

「自分が解せない相手にどう向き合い、どう思うのか」
これは相手に関わりが生じる一般的なイメージでのコミュニケーションとは異なり、「相手と自分を同じように慮る力」とでも言うのでしょうか。何かしらの行動を起こす事は一切無い。起きた事象にただ内省があるのみ。

【慮る】周囲の状況などをよくよく考える。思いめぐらす。

巷にありがちな意見として、【強者の目線】の虐められる側も何かしらが悪い説になってしまうと、だから虐めて良いと言う極論になりがち(例 相手がそもそも気に入らない。更にもたもたするから自分に被害が起きた。それにとてもイラついた。被害を被る側の気持ちを考えろ)。これを思い、その内心を行動に起こした人をコミュニケーション能力が高い側の人に入れて良いという事なのか?

対して【弱者の目線】の誰しも虐めは良くないし、少々問題があっても受け入れる広い心が大事。これを極論にしてしまうと(例 相手が自分に気持ちの良い態度をしない。だからひねくれた態度を取っても良い。人はそういう時もある。能力が低いのは仕方が無い。相手はそれを引き受けるべき)どんな相手でも受け入れなければならないのか?そして自分が受け入れられない態度をする相手にも、それは仕方が無いと思わなければならないところまで進んでしまって良いのか?

外国では日本にはなじみが薄い【施しの精神】が今も普通に存在する。街角のホームレスが置く缶に小銭を入れる。教会に入れば貧しい人のための募金箱は普通にある。それに当然入れる。日本ではどうだろう?ホームレスを見かけたら近寄らない、神社やお寺は自分の願い事を聞いてもらう為にお賽銭箱に小銭を入れる。全く逆では無いのか?【強者の目線】は西洋的な発想で、だから弱者に施しをするという【施しの精神】が存在し、また【弱者の目線】からすれば施しは強者が行うのは当然でそれに甘んじるのは普通という発想がある。更に【施しの精神】は【強者の目線】と【弱者の目線】がお互いぶつけあい、そこでその場に相応しい形と成すと感じる。だから主張をお互いがするのは当然なのだ。

日本人は【施しの精神】というものより【慮る精神】とでも言うのでしょうか、相手の状況を考え、敢えて直接関わらないという所に行きつく感覚。【慮る精神】は自分は強者だがそれを直接出さない、そして相手に内在する【強者の目線】を潰さない事を考える。また自分が弱者の場合、弱者であることを主張せず、また相手に内在する【弱者の目線】を引っ張り出さない。お互いのプライドと言えばよいのでしょうか、そういう点に触れず距離を置く。距離を置くことを仲が悪いとはだれも思わない筈。少なくとも多くの人は距離感は「空気を読め」という言葉が皆使う程度には浸透していると思っている。

ここで間違えて欲しくないのは「無関心」だ。無関心は【施しの精神】を持たぬ強者のやる事であり、それを是としている訳では無い事だ。

今の日本人の感覚として、本来ある「他者へ慮る」を捨て、「誰とでも仲良く」から進んだただの【強者の目線】にすり替わりつつある気がしてならない。そして【慮る精神】の日本人なのに【弱者の目線】と【施しの精神】を持たず【強者の目線】を使うのはあまりに生きにくい世の中に向かうばかりで理想とする世の中へ向かうとは言い難い。

「誰とでも仲良く」から始まる幼稚園からの集団生活。本来なら自分は自分の気持ちや生き様がある。相手にもある。そしてそれを受け入れる自分も受け入れない自分もあるし、その事は決して悪い事ではない。だから相手との距離を保ちその気持ちと向き合う【慮る精神】をもう一度集団生活に取り入れても良いのではないのかと思っているし、今集団生活に身を置く人達にもそれを思い出して貰う事が大事ではないのか。

なかなか人付き合いが苦手な自分。このニュース含め自身に起きた事象から【慮る精神】を再度自分に問い直してみたいと思っている。




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