51115号室〈消費〉

 音楽でも芸術でも、
「わかりやすい」がもてはやされる時代になった。

分かりやすく、ノリやすい。
分かりやすく、とても綺麗。
分かりやすく、この人の作品と分かる。

 でも、「分かりやすいね」と理解された瞬間から、
それに対する消費は始まっている。
 消費され始めると、いずれ終わりが来る。
 世間が次のエサに飛びつく瞬間は、それが汚く食い散らかし終わった証拠だ。
最近、そのサイクルがものすごく早いと感じる。

 さて、昔の芸術は絵画はどうだろう。
消費されなかったのだろうか。
それは、消費される部分と、されない部分の混同にあるのではないかと思う。


 例えばピカソのキュビスムは、物事を多角的に描いたのだろうな、ああこれがこうなってるのかな、と一見理解したように見える。
 しかし、キュビスム根本はそこではなく、物事の考え方だ。絵なんてただの表現手段で、本当は立体造形でも表現できる。(実際キュビスムが派生した立体造形がある)

 つまり、研究して初めて概要が理解ができるということだ。
 (ピカソは描く前に計算式を書いて再現性が持てるように絵を描いたが、その計算式は誰も理解できなかったため実際再現性がない、というエピソードがある。つまり、完全に理解をすることは到底できない。)

 つまりキュビスムの良さは、一見理解しやすそうと人々の掴みは完璧で、でも中身を掘ってみると誰も理解できないという仕組みである。こういうのは、人々の心を掴んで離さない。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画だってそうだ。一見ただの宗教画だが、彼が天才であるが故にその絵画に何らかのメッセージが込められているのではないかと未だに研究がなされている。

 またこの二つは、その時代の考え方や根本を覆した、もしくはこれ以降の美術に多大なる影響を与え「歴史的資料」として評価されている事にも、未だ評価されるひとつの理由だろう。

 少し話が変わるが、YMOの音楽を見てみよう。
 あの人たちの音楽は、当時聴いても、今聴いても新しい。普通は時代によって流行りが変わっていき「この曲90年代みたい〜」や、バンドでも最先端すぎる音楽を奏でて売れずに散っていったバンドと存在する。

 それにははやり、先述した絵画のような仕組みがあるのではないかと推測する。

 なんにせよ、今の時代は流行りに乗るのもいいが、完全に乗り切ってしまうのはとても勿体ない。
 今いちばん作るべき作品は、イルカのような背びれを水面上に出して波に乗ったように見せかけ、水面下では見た事がないバケモノ。それが消費されないいちばんの方法なのだはないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?