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河伯にはなれなかったけれども

※ 申し訳ありませんが、今回までセンシティブな内容となっています。
何故なら前回に引き続きのそのまた続きでありますので。
脂腺母斑(しせんぼはん)という病気について触れています。
繊細な方は回れ右で前回から引き続きで申し訳ないのですが、もうしばらく回り続けていてください。
今回に限り、ジャンプの追加可ですので、どうかどうか呆れず次回も相手してやってくださいませぇ。

先日は中学2年生に進学した私が厨二病を患い、放課後の焼却炉を背景に夕陽の下で1人孤独にバッタを数えていた所、仮面を被ったカタカナにしか変換できないような言語を叫ぶ者達と対峙するところまでお話したかと思うんですが、診断の時も、お医者様は母だけではなく、私にも説明をしてくれました。

あと2回手術すれば綺麗に消えるよ。と言ってくれましたっけね。
縫って繋ぎ合わせた後、皮膚が元に戻ろうとするから、一度で終わらせると、縫い目が少し大きくなるかもしれない。
勿論、後からまた美容整形外科などでもう一度手術して傷跡を隠すことはできるよ。とも言われました。

しかし私は傷跡を隠すことは未来の自分に託しました!
怖いからです。
注射が。
ちなみに未来の私である私は
「その頃3回やっても良かったんやない?
私は絶対にせんけどね。
怖いから。
注射が。」
って思ってますけどね。

中2の夏休み、私は脂腺母斑の2度目にして最後の手術をしました。

最初の手術では、幼く、動くかもしれないから全身麻酔だったようですが、今回は頭部だけの部分麻酔でした。

手術室がどんなだったのか全く思い出すことができません。
かかりつけの病院に行った時に、処置室に案内されたような多少の冷たさと心細さがあったような気はします。
がっちがっちに緊張していたんでしょうね。

手術台の上に乗り、左腕に点滴を入れられました。
私の腕は針が刺しにくいらしく、結構頑張って探してくれていました。

ザリザリと頭頂部の毛がそられていきます。
あれ?思ったより広範囲剃られたかも?
触れられる箇所触れられる箇所に意識が集中します。

いつのまにか先生が来ていて、何か優しく声をかけてくれたことは覚えてますが、内容は全く思い出せません。
頭部に何がチクリと刺されました。
そこから先生とわたしの問答がしばらく続きました。

チクリ。
痛い?
痛いです。

チクリ。
痛い?
痛いです。

チクリ。
痛い?
痛いです。

チクリ
痛い?
少し痛いです。

チクリ
痛い?
痛くないかも。

問答を繰り返すうちに、痛い?と聞かれたら、痛いと答えていましたが、いつのまにか、感じていたのはチクリとした感覚だけだということに気付きました。

ザクザクザクザク。
まるで、段ボールを切るような音が響きます。

看護師さんが私に尋ねます。
「ねぇ?今年はもう海に行ったん?」

ボタボタボタボタ。
まるで、プラスチックのバケツに水滴が落ちるような音が響きます。

私が答えます。
「今年は行ってないです。」

ザクザクザクザク。
ボタ。ボタ。ボタ。

看護師が私に尋ねます。
「泳げるん?」

ザクザクザクザク。
ボタ。ボタ。ボタ。

私が答えます。
「少しなら泳げます。」

ぐいぐいぐい。
わぁ、なんか引っ張られてます。 

看護師さんが尋ねます。
「何mくらい泳げるん?」

ぐいぐいぐい。
ぎゅっ。
ごそごそごそ。

私が答えます。
「クロールなら一応100mで、平泳ぎはまだ25mしか泳いだことがないです。」

ぎゅう。
ごそごそごそ。

看護師さんが感嘆します。
「凄いやん。」

どれぐらいの時間が過ぎたかは分かりません。
きっとあっという間だったんでしょうね。

無事に手術を終えて帰宅。
頭には重傷を負ったかのようにネットを被せられました。
このまま教室に行けばヒーローかもと思いましたが、生憎の夏休み。
いくつかの注意事項ともしもの場合の鎮痛剤を貰って帰宅しました。
その日の夜だけ、縫った部分が鼓動しているような痛みを感じました。

夏休みが明けた頃にはガーゼもネットも外れ、まるで頭頂部のスポーツ刈りをわざと長く伸ばした髪の毛で隠すような髪型になっていました。
ハゲは隠せますけど、スポーツ刈りは隠せないようで、覆いかぶせるように後ろに流した髪の毛の隙間から、可愛い我が子が達がニョキニョキ立っているのが実は分かっていたんですが、誰も指摘することはありませんでした。

この出来事を、アルバムを見るまで私は全く思い出しもしませんでした。
おそらく私にとってはたいしたことではなかったんでしょう。
今も縫った跡は残っていますが、頭の真ん中あたりなので、普通に髪の毛をおろしていても見えません。

この頃の私は、頭頂部に髪の毛が存在しないことよりも、どこかで母がこのことに対して負い目を感じていることが分かっていて、そちらの方が辛かったのです。

今回のお話は、ふと思い出しての書き出しでしたが、もし同じ病気の人が家族にいたら、少しでも気持ちが楽になってくれたらなー。なんて。
私の書き方じゃ、ちっともならないかもしれないけれど(笑) 

個人差はあるかもしれませんが、私はこの病気を苦に思ったことはありません。
母が時々謝るように「お母さんがこんなふうに生んだから」なんてことも感じたことはありません。

私は実はちょっぴり変わっているらしく(時々周りの人に言われます。)、それを自覚していながらも、自分が自分らしく生きる道しか選ばない頑固者になってしまいましたが、そんな頑固者を兄や妹と区別せずに育ててくれた両親には感謝しかありません。

私は両親のことが世界中の花を集めて贈りたいくらい大好きです。
そんな2人の娘に生まれて本当に幸せです。


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