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「末期医療ロボット」。パンタグラフに看取られる死にかけの人間。

01:「未来と技術展」

「未来と芸術展」で展示されていたという”末期医療ロボット”。不治の病の患者が死ぬまで腕をさすり続け、安心感を与えるというロボットらしく、そのデザインも簡単なクランク機構の先端に接触部が取り付けられた”ロボット”というにはあまりにも簡素なデザイン。
正直言って目的も名前もデザインも好みすぎる。

「テクノロジーの革新がもたらす可能性、その陰に潜む不安を共有する想像力」と記事にあったが、本当にその通りの作品。
こんなパンタグラフみたいなデザインのやつにさすられ、無機質な機械音に慰められて患者が安心する訳あるか?と言ったらまあそんな訳はない。そしてこれを作った人間も(ここではこの機械が真っ当な医療器具として発売され実用されている世界観を考察する)、どうせこれで患者が安心するとは思っていないはず。ではなぜこんな機械が病院で使われているか?それは、この機械が実用されている世界では”倫理”というのがただの習慣になってしまったからだろうと私は考える。

02:例えば

例えば日本人は飯を食べるときに「ごちそうさま」「いただきます」とか言うけど、それを言う理由は「それを言わないと、作ってくれたお母さんが悲しい顔をするから」だとか「子供の頃から食べる前にはそれを言うのが習慣だったから」とか「”食べる前には感謝の気持ちを示せ”と幼い頃刷り込まれたから」であって、決して「調理してくれた人、お野菜を育ててくれる人、牛さんを育ててくれる人、お肉になってくれた牛さん、牛さんの首を切り落とた人、牛さんの骨を断ち皮を剥ぎ肉にしてくれた人、この料理を自分が口にするまでに関わったみんなに感謝」ではないだろう。現代において「”いただきます”と食べる前に言う」とはただの習慣であり、感謝の意味合いは失われつつある。これは、かつて”道徳”の一環として行われていた行為が、時間の経過、技術の発展、人間が幸福になっていくにつれ、ただの”習慣”になってしまったと言うことを意味する。

03:”死にゆく患者を看取る”と言う文化

この作品の世界でも同じなのではないだろうか?現代では”死にゆく患者を看取る”と言う文化は「死んでしまうなんて可哀想!」「もっとこの人と話したかった!遊びたかった!」「病気を治せなかった!」みたいな慈悲や同情や寂しさ、つまり”道徳”でやっている行為である。しかしこのロボットが使われている未来世界においてはそうではない。「死にゆく患者を看取る」と言うのはただの習慣になってしまったのだと思う。「こいつ死にそうだから看取る」とか「看取るの面倒だからロボに任せるだとか」そんな感じ。
「食べるから→感謝をする→感謝を伝える儀式としていただきますと言う」だったのが「食べるから→いただきますと言う」になったのと同じく、「他人が死ぬから→それが悲しく残酷だから→看取る」だったのがこの未来世界では「他人が死ぬから→看取る」になってしまったのだろう。

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