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自分に納得してから死んでいきたい

 今の自分は自信が無い。失敗が怖い。何も出来る気がしない。だから何もやらない。もう以前の様には勉強など頑張れないと思ったらもう頑張れない。そう思いたくないけど、確かに頑張れていない。だからそんな考えが浮かんでは自分に鞭を打てずにダラダラと日々が過ぎていく。
 もう24歳だ。この歳になっても軸もなければ仕事もない。かつては将来が有望視されていた、学校ではいわゆる優等生の扱いを受けていた。受けるたびにプレッシャーだったが、まぁ嬉しかった。自分なりに努力を続けてきた。夢を追いかけてきた。でもその夢は夢に終わった。自動車エンジニア、モータースポーツエンジニアになりたいという明確な夢があったが、モノづくりをしたことが無い自分の今までの経歴や経験、意識など色々遡って考えていたら、自動車というモノづくりがしたいという夢は虚言に過ぎなかったのだろう。でもそう言い続けていたのは、心に何も無い自分に耐え切れず、何か自分自身を示す何か、つまり肩書きが欲しくて堪らなかったのだ。軸が欲しかった。そんなしょうもないプライド、でも捨てられないプライドが自分を大学院合格まで駆り立てた。
 エンジニアになるために、問題解決能力を鍛えるために研究経験が必要だと思い、学力や精神力の向上のためによりレベルの高い大学が必要だと思い、そして、世界で活躍できるエンジニア、特にF1等の世界で仕事をするエンジニアはmasterを所持しているのが現状だったため、大学院で修士号を取得するために進学した。
 地獄はここから始まった。詳しいことは就活中の身だからあまり書けないが、精神の限界を感じるようになった。生まれて初めての経験だった。何をやってもうまくいかない。どう考えても真ん中に心を維持できない。自分との本当の格闘が始まった。最終的に大学院を中退した。これは大きな決断だった。新たな道を切り開くための決断だった。
 新たに気持ちを入れ替えて就活に臨んでいるはずだった。でも今は、就活解禁がされたのにも関わらず、ダラけている。自分が転落していくのを俯瞰で見てしまっている。自分という檻の中に自分という虫を飼っている感覚。転落する自分が何だか笑えてくる。もうどうでもいいと思ってしまう。人生なんてどうでもいいと思ってしまう。生きるのが苦しいもので溢れているというイメージに駆られてしまうこともある。死をイメージすることもある。そんな自分は既に反社会的な人間だろう。
 そんな時ふとYouTubeを開いたら、大愚和尚さんのある動画に出会った。

この動画の相談者は自分を制御できずに仕事を続けられず人生を幸せに生きることが出来ないという深刻な相談だった。部分的に自分にも当てはまるところがある。それは自分自身を制御できないというところだ。楽な方楽な方に逃げたくなる。自分を変えたいというところも共通していた。この動画の中で西遊記の孫悟空の話があった。頭の輪「緊箍児」に関するお話だった。孫悟空は名前はよく聞いていなかったが、孫悟空が怒りが収まらなくなるときも、この緊箍児を頭にはめて三蔵法師がお経を唱えることで、それが窮屈になり痛みに耐えきれず、怒りを沈めていた。自分にも緊箍児が必要なのかもしれない。心の師匠が必要だ。自分が荒れてきたら自分を制してくれる者が必要だ。別に人でなくても自分なりの緊箍児が必要だ。

 本当に強いものは荒れ狂うどうしようもない自分。そこに打ち勝たないといけない、制さないといけない。そうしないと社会から阻害される。生きていけなくなる。でもこれは当たり前のように見えて大変なことだ。

 自分が自分自身に納得いく自分に成長してから死んでいきたい。それまでは死ねない。


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