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真っ黒な指輪

「モーニング・ジュエリー」というものがあるそうだ。「mourning=喪に服す」逝ってしまった大切な人を、装身具を通じて偲ぶ風習。メメント・モリ(memento mori)のメッセージを込めた頭蓋や棺のデザインのアクセサリーなどがある。19世紀イギリスのヴィクトリア女王が最愛の夫を亡くした後に数十年もの間服喪していたことは有名で、オニキスやジェットの石を使用したアクセサリーを常に身につけていたという。





2021年7月22日。東京オリンピックの開会式を翌日に控えた日、父は死んだ。ガン告白から2年弱、あっという間の死だった。



ガンが発覚したときには骨への転移もあり、既に手術での治療は不可能であった。このような事例の場合、平均して2年ほどで亡くなるケースが多いそうだ。このような結末を迎えたこと、それは検査を怠った父に落ち度があった。そう言わざるを得ない。





上記のような随分な講評になってしまうのは、やはり「親の死」だからだと思う。それは、友人の死とも推しの芸能人の死とも違う。「親の死」は特殊だ。





最近「親ガチャ」という言葉を耳にするが、やはり子供は親を選べない。生前の父のなんの気なしに言った言葉には、わたしの中で確実に「呪い」となっているものもある。問題のない家庭が存在しないように、お互いに正の感情しかない親子関係も存在しないと思う。





でも振り返ると、自分の思想の基礎には「親」が残していった物が確かにあって、自分の行動理念のよりどころになっている。それは感謝であるし、尊敬でもあるし余計なお世話でもある。





余命宣告を受けてからの一緒に過ごした数ヶ月は、本当に想い出深い。弱っている親はどうしようもなく荷物に感じたし、そう思う自分を責めて苦しんだりもした。私は冗談交じりに彼の往生際の悪さをイジったし、本人も周りが笑えない自虐をした。無感想/無思考で過ごせる日は1日もなかったような気がする。その代償に躁鬱っぽくなったので、ちょっと恨み節だ。





降って湧いた小金があったので、今まで自分では買おうとも思わなかったアクセサリーを購入した。駆け出しのフリーランサーが安易に手にできる額のものではない。しかし、それは自分へのねぎらいなので悪びれることもない。せっかくなら意味を持たせたいなと思い、真っ黒な石の指輪にした。オニキスの石だ。





もともとアクセが好きで、それに関する漫画やファッション雑誌を読んでいく過程で「モーニング・ジュエリー」や「memento mori」という言葉を知った。memento moriとはラテン語で「いずれ必ず死ぬこと」転じて「死を忘ることなかれ」という意味を持った警句で、私にとって、いま以上に刺さることはないだろうと思う言葉だ。モーニングジュエリーで採用される石には種類があるので、このタイミングでアクセサリーを買うのであればその中から選びたいと思った。手元供養の意味もあるし、メメント・モリの意味もある。いつでも自分の指先を見れば、父のことを思い出せるように。





もうこれからは、父をきっかけに不要に傷つくことはないんだと思うと嬉しく思う。それと同時に相互のやりとりができなくなって、想像でしか補完できないことを寂しくも感じている。自由を手にしたような気がしたが、これが決別なんだと深く思い知らされた。





手元には自分で選んだ "モーニングジュエリー"がある。喪に服す期間は1年と基準があるだろうけれど、私はこの指輪をずっと身につけたい。父と離れて、わたしの中でも変化があった。いなくなる「前」と「後」に分類できるほど大きい変化だ。それを忘れないためにも、この指輪とこれから長く時間を共にできたらいいなと思う









おわり。

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