宇宙的四畳半、四畳半的宇宙

森見登美彦信者が通ります。

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器が小さい人間なので、得意では無いものがたくさんあるのだが、その中で筆頭得意ではないが「終末予言」である。

まだあどけない阿呆であった頃から、幾度ものXデーを毎回、本当に毎回、律儀に怯えながら過ごしてきた。

(ひとつ予言を越えるたびに、次のやつを調べていたから。
見たくないなら見るなよ、ができない人間なもので…)


「『世界の終わり』が来るって、世界の定義は人それぞれだから、つまりこの予言をした人の世界が終わるんだ!」と小賢しく考えていた次の瞬間
「地球滅亡」の文字を見て半泣きになったのも良い思い出である。(しかし長く覚えていたい訳では無い)




自分だけ生き残ることを前提にしている訳では無いし、むしろ終末を知らずに済むなら幾らでも先にフライアウェイとすら思うのだが、
よくわからないがとにかく怖い。



もう、ただただよくわからないが、とにかく怖い。なんか圧倒的すぎて、言葉にできないが怖い。
そんな感じである。




対して、四畳半は好きである。
四畳半の部屋に実際に滞在したことがあるとかそういう訳ではなく、森見登美彦氏の本とウマが合った人間は、多分だいたい四畳半という言葉に愛着を持っている。




四畳半は宇宙だ。





本noteでの『四畳半』は、誰かの住む空間をすべて指す。

実際の広さや家賃は問題ではないが、シンプルであればあるほど想像しやすいので、四畳半という表現をあえて用いる。

さて、

ある人が、「この土地に四畳半の部屋を作ろう」と考えたら、それは四畳半の始まり、つまりは四畳半の出発『点』である。

ある人の意志をもとに、その場所に完成した四畳半は『面』である。
誰かが住むはずの場所であるのに、ただ板で仕切られた空間でしかないならば、時間の流れや物語がなければ、それはただそこにあるだけ、全ての基盤たる地『面』でしかない。

(実際には空間として存在しているので、『面』の概念だけ比喩表現として受け止めてください。)





春になり、学生が入居する。
もしかしたら新社会人や家族かもしれないが、分かりやすいので学生ということにしておく。



学生は新生活に胸をふくらませ、
それまで住んでいた空間からいくらかの荷物を持ち込み、まだ自分のものでない、なんのエピソードも記録されていない面を、見様見真似で構築してみるのだ。



家具類はそれまでの記憶を引き継いでいる可能性はあるが、そうはいっても、四畳半全体を見ると、彼ら彼女らにとってはやはり新しい。これまでとは何かが違う。

期待に胸を膨らませるかもしれないし、不安でいっぱいかもしれないが、とにかく学生にとって、それは何かの始まりだ。





それからは、その人の日々を吸収して、四畳半は膨張する。
教科書が増えるだろう。服が増えるかもしれない。趣味の道具が増えるかもしれない。或いは、家からの仕送りのダンボールが積み重なるだけかもしれない。

そこにいる時間はもちろん、いない時間の分も、四畳半に蓄積されていく。
学生が四畳半に戻ってくる限り。四畳半に、四畳半以外からの記憶やものを持ち込む限り。





4年かもしれないし、6年かもしれないし、
はたまた8年かもしれない。
学生は四畳半にあらゆる時間を食べさせて、
四畳半はぶくぶく太り、
また学生は当たり前のように、四畳半に戻ってくる。

四畳半に時間と情報が詰まって詰まって、しかしそれはある日終わりを迎える。

ある日突然学生はものを捨て始める。ダンボールを組み立て始める。
気がついた頃には、部屋はからっぽになっている。

学生は名残惜しそうにしながらも、別の場所へ、
きっと次は駅の近くの八畳へとフライアウェイしていく。




四畳半は物理的にはからっぽになるが、
そこにいた人の記憶や、そこに人がいた時間は運び出せないから、なんだか結局ぶよぶよしたまま、首を傾げるだろう。




はて、今は何の時間か、と。


空白の中に、四畳半がとある彼と過ごした時間だけが残っている。


さて、

そうこうしているうちに新しい学生がやって来て、また見様見真似で四畳半を飾り、
たくさんの時間と情報を与えて、
そしてやがては去っていく。


四畳半にはまた、「時間が過ぎていった」というそれだけが残される。







それを繰り返して繰り返して、
どれくらいの月日かは知らないし、
理由もわからないが、いつか四畳半はなくなる。

自然災害にあったのか、老朽化による取り壊しか、はたまた付け火か。

あんなに太って太って、そこに確かにいた四畳半は忽然と姿を消す。




四畳半の食べたものは、四畳半が消えたあとはどうなるのか。

恐らく今度は四畳半を支えていた「外の世界」が四畳半を証明するだろうが、
もう四畳半には、四畳半がそこにあったことを証明できない。四畳半に蓄積されていた時間は、四畳半がなくなることで完全な概念の存在になる。



いつかあの日の学生が社会人になり、
四畳半の日々を懐かしく思い出すだろう。
けれども、それは既に『四畳半』の記憶ではなく、元学生の脳みその中に構築された、解釈という装飾や勘違い、思い違いを多分に含む記憶になっている。



四畳半の日々は、四畳半にしかわからない。








四畳半の消えた場所に、また誰かが次の四畳半、或いは八畳、或いは十二畳の点を打つかもしれない。
点が打たれたら、また次の○○畳が面となり、誰かがそこを空間として仕立てあげて、また24時間を延々と繰り返していく。

そこでまた、○○畳は○○畳の日々を得て太って、やがて消えて、また次の○○○畳が生まれて育つ。








大きな終わり、小さな終わりを私たちは日々の中で区別するけれど、それはどれも等しく終わりである。

それが大きな終わりか、小さな終わりであるかを決めているのは私であるのだから、
私の目線が、私の思う位置から外れたら、その大小は変動してもおかしくない。

(もしかしたら寸分たがわぬものもあるのかもしれないが、
人間の脳みそと言葉では、残念ながら寸分たがわぬことを説明できない。ただ感覚的な「わかる!!それわかる!!」でしかない。)







四畳半の終わりは世界の終わりであって構わないし、
世界の終わりは、すなわちある四畳半の終わりであって構わない。




終末予言を恐れることは、机に並んだちりめんじゃこと「食べたら二度と会えない」と怯えることと変わらない、と言ってもいい。

友達と絶交することを恐れて媚びるのは、また終末予言をなんとかして回避しようと 突然地球に優しくを標榜することと同じである、と形容することも正解であって良いのだ。



日々の中でなんとなくこなすそれと、地球規模だとかそういう言葉でくくられるそれには、
果たしてどれほどの違いであるのか。



ある文言とある文言を聞いた時、それぞれ心の中にうまれる印象の差は、果たして本当に差であるのだろうか。

(また、同じであると感じたことは、本当に同じであるのだろうか。
この辺を心に留めていれば、人に優しくできる気がする。)

(けれども、文章の流れ的にここでその文言があると微妙な感じになるので 黙殺してみる。)






そう考えると、終末予言の恐ろしさは、特別気にするほどのものでもないなと気がついた。



副作用として、ゴミひとつ捨てるのにもなんだか罪悪感を感じるようになるかもしれないが、
そこは気軽に視点をスイッチして、自分の求める日々に近いものを選んで上手くやるしかないかと思う。


地球を大切にしろと言う言葉も、なんだか家族や恋人を愛するそれと、大して変わらない。



四畳半の宇宙性、宇宙の四畳半性。

だが決して、私は四畳半でも宇宙でもない。

私が存在する限り、私にとっては私は私である。

愉快っすね。明日も頑張りましょ





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そんなことを考えてしまう、『四畳半神話大系』です。
興味持たれた方は是非読んでみてください。

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