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普通

「普通」ってなんだろう。
「普通の形」「普通の生活」「普通に美味しい」、、、
普通ってその全体の平均なのかな?それとも全体の真ん中ぐらい?平均や真ん中ぐらいだとするなら、お金持ちだけを集めてお話をしたらお金持ちが普通?まずお金持ちってどこから?そもそもお金持ちは普通以上?じゃあお金持ちは普通ではないの?んーー。難しい。

「普通の食事」と言われたらどんな食事が思い浮かぶ?
お金持ちの人の普通の食事は、貧しい人の普通の食事とはきっと違う。じゃあお金持ちの人の普通の方が良くて、貧しい人の普通は良くないの?そんな事ないよね。
じゃあじゃあ、もし君が人を招いて料理をするとして、お客さんに「普通の食事でいいよ。」って言われたら自分の普通じゃなくてお客さんの普通を作ろうとするよね。向こうの普通とは違ったら嫌な気持ちをさせちゃうし見栄を張ってちょっぴり豪華にしちゃうかもね。
「普通」って言葉は単純に見えてものすごい数の意味と形を持っている全然普通じゃない言葉かも。

僕は普通でいられることはとても幸せな事だと思う。でもそう思えるのは普通に育ったからなのかもしれないって思ったけれど僕は普通の環境なのかどうかも怪しい。自分なりに考えると僕は話に聞くような「すごいお金持ちの家」や「すごい貧しい家」のどちらかに入るのは両方少し違和感があるから3つに区切るとしたら「普通の家」に入ると思う。両親はずっと共働きで昔からやりたい習い事はやらせてくれていたし、高校や大学も偏差値とか学校の名前に縛られずにやりたい事が出来る所に行かせてくれた。これらを僕は普通とは思えない。なぜなら両親は普通以上に優しい人であることを知っているから。両親の優しいレベルに慣れてしまってそれを普通として世間に押し付けて生きるとその世界はとんでもない事になる。けれど我が家ではその「普通以上の優しい」が「普通」としてはっきりと確かに存在している。僕はそのズレを思春期が始まるよりもずっと前の小さい時から気づいていたから他人の優しさの普通とすれ違うことは少なかったし、自分は普通で居られるということは幸せな環境であると考えていた。これはどんな普通にも言えることだと思う。

てことは自分の「普通」のレベルが高かったり低かったりしている事を理解しないでそれが自分ではなく世間の「普通」だと考えてしまうと他人とズレができてしまうことになる。必ずしもズレが悪いことになるわけでは無いが、怒りや悲しみはそのズレで起こる気がする。
例えばさっきの話の「普通の食事」をあげると、お客さんから頼まれた「普通の食事」を自分の思う普通で提供した時、お客さんは実は大金持ちで、お客さんが言っていた普通は自分の中ではものすごく豪華な食事レベルだった場合、お客さんからすると普通ではないそれ以下の食事が出てきたことになるからなめられた!と思って怒ってしまうかもしれないしそんな人に見えたか、と落ち込んでしまうかもしれない。でももしズレたお互いの普通をリスペクトして、そのズレをきちんと理解していたのなら喧嘩になることはないと思う。そううまくいかないけどね。

でも自分の「普通」を「ズレた普通」と理解したとして、それに自信を持ち、信じすぎるのも良くないと思う。上には上の「普通」がいるし下には下の「普通」がいることを理解していないと、恥をかいたり失礼になってしまう。「僕の普通は高いレベルだ!」と思ってもほぼ確実に上がいる。その自信は時に挫折や恥に繋がってしまう。逆も同じく、「僕の普通は低いレベルだ、」と思ってもほぼ確実に下がいる。その自信は時に失礼で嫌な印象を与えてしまう。自分の普通を表に出して押し付けるのはあまりいい方向に行かないし、他人と普通が一致することなんかほぼないと思った方がいいのかも。
難しいけど、自分の「普通」のズレを理解することは大事だけど、そのズレを他人に押し付けるのは避けて自分の中で大切に閉まっておくことが大事なんじゃないかな?

「普通」ってなんだろう。
結局「普通」という言葉を理解するのは単純では無くて僕には難しい事だったけど、「普通」の在るべき姿は分かった気がする。
人はそれぞれ全員がそれまで生きて培ってきた「オリジナルの普通」をたくさん持っている。たとえそれが相手と大きく違ったとしても、お互いゆっくりと長い時間をかけて育ててきたその「オリジナルの普通」を突然大きく変えることはとても難しいから、自分の普通を押し付けずに相手の普通とのズレを理解し尊重して、人と関わる事が大切だと思う。それが世間の「普通」になって欲しいと僕は思う。

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