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「わかってもらえないと思うけれど」

日本語が好きだ。

といっても、日本語以外になんとなくわかる言葉といえば、中学校の教科書レベルの知識で留まっている英語くらいのもので、そのほかの言語に関しては「こんにちは」と「ありがとう」が言えればだいぶいい方。それゆえ、ほかの言語との比べようがなく、日本語が好きと思うのは至極当たり前な気もする。

つまるところ、言葉が好きなのかもしれない。

“推し”と呼んでいる川谷絵音の書く曲の歌詞を噛み締めては、寝起きの2時間で一日前のアトロク(TBSラジオ平日18〜21時AFTER6JUNCTUION)で宇多丸さんの話を聞いては、Twitterで日々垂れ流されるどこの誰とも知らぬ人のつぶやきを見ては、この言い回し好きだな、この言葉選びをできるこの人素敵だな、この言葉の組み合わせの違和感どうしようもなく魅力的だな、と思ったりする。

小学生の頃から、国語のテストの長文問題で出てくる小説の前後が気になりすぎて、後で図書室で借りようと机に本のタイトルと作者をメモし、カンニングを疑われていたわたし。あの頃は、重松清さんとか多かったかな。物心がついたときから言葉を聞くのも、読むのも、話すのも、書くのも、好き。

人が息を吸って吐くのと同じように、わたしは言葉を吸って吐いて生きている。


だから、小説を読んでいて、『うわ、この言葉嫌いだ』と思ったのは、なかなか珍しい体験だった。それがこの言葉。

「わかってもらえないと思うけれど」


もちろん週に1〜2冊も小説ばっかりを読んでいれば、作家さんによってはわたしならこういう書き方はしないなと思うこともあるし、でた!○○節!と思うこともあるし、いかにもこの人の書き方だなと思うこともあるし、ストーリーの好みとは別にして書き方の好き嫌いはあるものだけど、そういうのではなくて、この言葉、わたしはとっても嫌いだなあと思った。


ちなみに、このとき読んでいたのは、加藤千恵さんのアンバランス。

この本自体はすんごく良くて、まさに女性だから書ける女性の心の揺れ動く様が最初から最後までずっと描かれ続けていて、劇的な展開は最初以外あまりないけど、心理描写を楽しむ作品が好きなわたしは好きな一冊でした。

お話の中でこの言葉は、あるトラウマを持つ夫が妻に向けた言葉なんだけど、すごく既視感。デジャヴ。…わたしもこれ言われたことあるな!しかも元夫に!


わたしは基本的に、わたしのことをすべてわかる人なんていないし、わたしだって誰のこともすべてはわからないと思っていて。我らが宇垣様の言葉を借りれば、「人には人の地獄がある」のでね!

となるとそもそも、「わかってもらえないと思うけれど」と言われたところで、いやわかんないよわからないでしょそんなもの。わたしはわたしであなたじゃないものって話なんだよね。

でも、この言葉ってそれだけでは終わらなくて、この言葉が出てくるシーンってだいたい、この言葉を言われる側が言ってしまう側を“わかろうとしているとき”に出てくる言葉だと思うの。

相手のことがわからないことと、わかろうとしないことは別の話で、わからないながらにもある目的のためにわかろうとするっていうのは十分にありえる話だと思う。

わたしはわたしであなたじゃないからあなたのことはわからない、でもわたしたちのため、これからのために少しでもわかりたいと思っている人にかける言葉として、なんと残酷な言葉なんだろう。まるで刃物だ。

わかろうとする努力をしている人に対して少しでもわかりやすく話して歩み寄ろうとすることを放棄して、それでいて自分の気持ちなんてどうせわからないとごく当たり前のことを嘆く。この身勝手さがゆるせないなと思った。


こと恋愛においては、26にもなって今さら誰かにわかってもらいたいとか思わないし、この人ならわかってくれるなんて期待も抱かないけれど、これは親子とか職場でも出てくる機会が無いともいえない言葉で、だからこそ気をつけなきゃいけないなと自戒を込めて思ったりした。

推しもいうとおり、『私以外私じゃないの』でね。


日本語って、言葉っておもしろい。嫌いまで含めて好きなんだなあ。

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