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読書細胞

会社の人に本を借りた。本のタイトルはここでは問題ではない。仕事に関係するようでしない、厚みはあるけどさらりと読めるようなそんな本であった。

中途採用、しかも6月。変な時期に入社した私には同僚がいない。ちなみに後輩も入っては辞めていくので同じ部署にはひとりもいない。私のデスクの席順は、先輩。先輩。いっこ飛ばさんと先輩。息詰まるっちゅーねん。入社6年目やねんけど。

まあそういうわけで、私は社内に一緒にランチ行って愚痴を言う相手とかいうのに恵まれず、なんでも話せる先輩というのにもなんとなく恵まれず、イイコに仕事をするだけの会社生活を送っていたわけである。お賃金をいただくために働いてるんやからそれでええのんやと言い聞かせながら。でも一日の大半を過ごすんやからちょっとは気を緩める場所が欲しいんやと思いながら。

そういうふうなわけであって、私が本を借りたというのは自分でもちょっと驚きの出来事であった。だって本ですよ。すごくパーソナルなものでしょう。

私は読書というものについて、巡りめぐって血肉となって自分をつくり上げる細胞のようなものだと信じている。ゆえに、人が読んだ本を「誰々が読んだ本や」とわかって読むと、その相手とおんなじ細胞が組み込まれたような気になるのである。その本を読むことでしか作られない、特別な読書細胞。

本を借りたきっかけはその人のデスクの横に置いてある本を見つけて「これ面白そうですね」と声を掛けたら「持ってってええよ」と言われただけのことであるが、一緒の本を読むことは一緒にランチに行くことよりもずっと共有するものが多い気がして不思議な気持ちになった。

この本を全部飲み込んだら、私には、あの人とおんなじ細胞が作られるのであろうか。

一冊の本が、章に分かれ、段落に分かれ、

文になり、

文節に
なり、






り、




  ば

ら  
 ば


  ら

になって。

自分の中でもどこ行ったかわからんくらい。

天気の話くらいしかせーへん相手とおんなじ読書細胞を持つ。

それってなんや面白いなと思うのであった。

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