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裏庭にうめたBB弾はいま

昔よく通った公園の砂場にたくさんのBB弾が落ちていた。ほとんどが薄いオレンジ色をしているけれど、たまにカラフルな色のついたものがあった。赤とか青とか緑とか。そういうのは当たり。ごくたまにクリアのものがあった。そういうのは大当たり。幼い私はせっせとそれらを集めた。そして、集めたBB弾を幼稚園の裏庭にうめた。ひとつひとつ丁寧に。まるで何かの種のように。踏まれないように。それらを毎日見に行った。

なんのためであったかさっぱり思い出せない。もしかすると、本当に種のようになにかが芽吹くのを待っていたのかもしれないし、なんのためでもなかったのかもしれない。当たり前だけれど、BB弾は丁寧にうめてみても、なんの変化も見せなかった。

繰り返し、繰り返し。好きなことや気に入ったことは、延々と、黙々と繰り返した。そのうち、行為そのものよりも反復自体を好んでいるみたいに。

いつからだろうか。目的を持たない時間に後ろめたさを感じるようになったのは。

お気に入りの本を何度も読むよりも、新しい本を読んだ。少しでも多くの情報や感動が欲しかった。最新の映画を追いかけた。旬な映画を語りたかった。資格につながらない勉強を後回しにした。「費用対効果」という言葉が頭をよぎった。その代償として、目的を持たない時間に後ろめたさを感じるようになった。

この変化は、私になにかをもたらしただろうか。

裏庭にうめたBB弾はいま、私のなかで芽吹きつつある。あの固くて小さい人工物からは、なにも生まれないことは明らかだった。けれども、愉しかった。集めて、うめて、観察して。その繰り返しは、たとえなにも生まれないとしても愉しかったのだ。そんな私が、コスパだなんて。タイパだなんて。あの時うめたBB弾は、私の中で芽吹き、愉しい時間を思い出させる。意味なんかないけど、愉しかった時間を。

幸せは目的の外にあるのかもしれない。


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