やる気なし子ちゃん

 蒸し暑い夏の放課後。清掃当番だった私はじりじりと陽の射す外へ、昇降口を出て踏み入った。少し歩いただけでも肌に服がべたべたとこびりつくような感覚だった。私は汗でずり落ちる眼鏡を人差し指で押し上げながらぱんぱんに詰まったごみ袋を片手に歩いて行った。教室掃除を一通り終わらせた後は誰かがごみ箱にあるごみを捨てるのが決まりだった。誰もそんな役目をやりたがらなかったので私は自ら立候補してごみ袋をひっつかんできた。そうして向かった先は教室のある一号棟から少し離れたところにあるごみ捨て場だった。

 ごみ捨て場は三号棟の陰にあったので日に焼かれることが無く私は少しほっとした。ごみ袋をぽいと投げ入れると私は踵を返してずんずんと大股に来た道を進んでいった。燃えるごみの倉庫。ペットボトルと瓶・缶の倉庫。粗大ごみの倉庫。一つ一つ、ごみ捨て場には倉庫が並んでいた。私はそれらの前を通り過ぎて行った。

「そんなに肌が白いのに、何で外に出られるの?」

突然声が聞こえて私は思わずわっと声を出してしまった。すると「そんな驚くことないのに。」とのんびりと声の主がまた呟くように言った。振り返ると木陰の中、段差に寝転がるように座り込む同級生の姿があった。

「澤西…莉子。」

私がぽそりと彼女の名前を言うと彼女は完全に寝転がりながらけらけらと笑った。

「フルネームで呼ばれるのとか久しぶりすぎて。笑っちゃうよ。そもそも、本名も呼ばれないのに。」

私はのそのそと大きく動くことなく寝そべる「自堕落」という文字がお似合いな同級生を前に不思議な感覚に襲われた。ごみ捨て場の近くの、確かに涼しいけれど長く居たいとは決して思えないところでくつろぐ彼女。特に面白いとは思えないところで声を上げて笑う彼女。あまり話したことのない彼女。私は到底理解できないものと出会ったようだった。

「何故名前で呼ばれないの?」

「ああ、私はね、いつも皆にやる気なし子って呼ばれてるんだ。あは、最近じゃなし子って呼ぶかなあ、皆。」

「あら、随分ふざけたニックネーム。澤西さんは嫌じゃないの?」

「ええ、だって確かに私やる気なし子だからさあ。」

彼女はへらへら笑うとあお向けになった。そのまま「雲おっきいなあ。」と空を見始めた。私もつられて真夏の青空を仰いだ。夏は暑くて嫌いだと思っていたが、こうして夏の空を吸うのは案外悪くないと心の内で思った。

「何故こんなところにいるの?」

私はすうすうと寝息を立てて今にも眠りそうな彼女に問いかけた。

「別に訳なんかいちいち無いよ。」

私が納得できず険しい顔で彼女を見つめると、彼女は「まあ、ここ、外なのに涼しいからねえ。」と続けた。私は彼女の思考を考えるのをあきらめてふうんと頷くと「それじゃあ」と去ろうとした。そうするとやっと彼女は起き上がった。

「ねえ、あんたは何でごみ捨てなんてやったの?じゃんけんに負けたの?」

彼女は「折角の色白が焼けちゃうよ。」とつぶやきながら私を窺った。私はこんな少し外に出るくらい、いくら自分が色白でも気にしないけどな、と思いながら答えた。

「私が立候補したの。だって私が行かなきゃ誰も行かないから。」

私の返答を聞くと彼女は「すごいや。」とつぶやいた。そして尊敬します、とおどけたような口調で言うとまた寝転がった。

「何故すごいの。誰でもできることよ。」

私は彼女の言動一つひとつに眉毛がぴくぴくと反応しているのが分かった。それと同様に、彼女もまた私の発言に過剰に反応しているようだった。

「何故何故ってあんた結構面倒くさいね。」

「それは悪口?」

「いや、感想。」

私は自分が面倒だと言われたことが意外にも心外で、寝そべる彼女に口をへの字にしながら近づいた。彼女はちらりとこちらを見たが、もう関心の一つもなくなったのか体を起こすことも顔を上げることもしなかった。

「あなたのようにこんなところでダラダラしているわけが分からない人には私のように常に何かを考えている人と話すことは面倒かもしれないわね。でも、その面倒という表現に私は納得がいかない。少なくとも私はあなたに声をかけられた。あなたが興味を持ったから私たちは会話をしているの。だからあなたが始めた私たちの会話をあなたが面倒だと言うことは少しおかしいと思う。それにあなたの目には私は面倒なことを率先してやっている変わり者に見えたのかもしれない。でも私にとってごみ捨ては決して好きではないけれど苦でもないの。何故なら私がごみをさっさと捨てることで放課後という時間を早く自由に使えるもの。私にとって、効率よく生活できるならば多少のことはやって当たり前なことなの。あなたとは価値観が合わなそうだから理解できないかもしれないけどね。」

彼女の態度に少し腹が立った私はここぞとばかりに言い放した。案の定彼女はこちらに背を向けていて聞いているのか聞いていないのか分からない状態だった。私はため息をついて「それじゃ、時間の無駄だったかもしれないわ。」と吐き捨てるように言うと私は彼女に背を向けた。

「あんたは、正しいよ。」

彼女がぼそりと言った。私が振り向くと彼女は体を起こして座っていた。そして続けた。

「でもさ、効率よく、正しく生きることがそんなに大事かな。」

「どういうこと?」

「だって…」と言いながら彼女は重い腰を上げて私に近づいた。そして人差し指を私の眉間に向けた。

「あんた、ここがカチコチ。眉間にしわ寄ってる。」

私ははっとして眉間に手を押し当てた。先ほどまでぐうたら気力のない顔をしていた彼女がふんわりと笑った。

「実は、窮屈なんじゃないの。時間に縛られて生きてもつらいよ。自分の本音を殺して正当に生きてもしんどいよ。」

私は何も言い返せなかった。いや、言い返したいとも思わなかった。今目の前にいる彼女は私を真っ直ぐ見つめている。私は一瞬目を伏せた。

「あんたは、強いよ。私みたいに諦めないんだろうな。私みたいに逃げないんだろうな。正しいことをきちんと言える。」

彼女は私の肩にポンと手を置いた。「でもさ」と、小さな声でのんびりと続けた。

「もう少し力を抜こうよ。そしたら何か、変わると思うよ。」

私は彼女のおっとりとした声に心を揺さぶられた気がした。何かが変わると彼女は言った。それは私にとって美しい響きだった。私は自分にとって効率よく生きるということ以上の美徳が無いと思っていたが、私がこの信念にこだわるほど確かにずっと、きっと何かを変えたくなっていたのかもしれない。そして知らずに力んで苦しんでいた私が変えたいものとはすなわち…。

 彼女は「忙しいのに話し相手になってくれてありがとうねえ。」と言いながらまた木陰の石段に腰かけた。横に放られている鞄から漫画冊子を取り出してペラペラと捲り始めた。

「あの、澤西さん。私初めてだったかもしれない。私、自覚しているの。口調きついでしょう?それなのに真っ直ぐ応えてくれたのはあなただけ。あの、ありがとう。」

私はそう言うと、少し体が軽くなった気がした。彼女は顔を漫画冊子から上げることはなかったが手をひらひらと振った。

「私、あんた好きだよ。上手くいかなくたって私いつでも暇だから相手してやって。」

彼女のセリフを聞いて私は胸が熱くなるのを感じた。

 私は駆け足で教室に戻った。掃除はとっくに終わっているので教室には誰もいないと思われた。しかし、戸を開けるとクラスメイトが一人残っていた。

「あ、戻ってきた。待ってたんだよ。おつかれ。」

私がぽかんとしているとクラスメイトは頭の後ろをポリポリかきながら続けた。

「いや、掃除の度にいつもごみやってもらっちゃってて、申し訳ないなと思って、やっぱり代わろうと思ったんだけどもう行っちゃってたからさ。ごめん、次は行くよ。」

私は何かが変わるという言葉が頭から離れなかった。私はカチカチに固まった自分の表情筋を精いっぱい歪ませてほほ笑んだ。

「ありがとう。本当は少しやりたくなかったりしてたんだ。…次はお願いしてもいいかな?」

そう言うとクラスメイトも笑顔を見せた。

「なんだ、ちゃんと笑うんだ。いつも怒ったような顔してたから。もちろんやるよ。…じゃあ、帰ろうか。」

私は魔法使いに出会ってしまったのかもしれない。すこぶる怠惰でのんびりな、やる気なし子ちゃんという名前の。


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