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自分史 高校卒業〜大学

𖤣今日も自己紹介noteでお伝えしきれなかった私自身のことをもう少し詳しくシェアしていこうと思います。((小6の時に授業で作った自分史参考 最近の小学校でもあるのかな‥?
自分について書き出すことで、自分のことを振り返り更に理解する助けにもなると期待ᵕ̈

前日の投稿の続きです!

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19−22歳 まあまあの私立大学進学 部活とバイトに明け暮れる日々

国際関係法学部
部活:フライングディスク部
バイト:とんかつレストランキッチン4年/アイスランドラム肉専門店サーバー1年/スカイツリー案内人3ヶ月/道の駅レジ・厨房6ヶ月

これまた少し無謀(?)運任せな受験方法に出て今回は見事に敗北。第一志望しか見ていなかったがセンター利用の滑り止め大学にしか受からず。浪人も考えたが、すでに中学の韓国留学で1年ダブっていたため2年の遅れ(今思えばそんな大した事ない)はとりたく無いという理由でそのまま進学。

今思うとこれが初めての挫折?だったと思う。小学校では中学受験勉強や公文の先取り学習などでクラスでは無敵、他の教科も優秀で周りからはオールマイティと呼ばれる。中学も韓国語に最初手こずるが2年目からはネイティブに話せるようになり、成績も悪くなく他の教科も変わらず問題なく小学生の頃ほどではないがオールマイティと言われ続ける。いずれも自分自身に確とした自信がなかったため、ただ周りに讃えられてるだけで何か不足していると常に感じていた。決して努力していなかったわけではないが、努力以上の結果が割りかし簡単に手に入ってしまっていたみたい。高校進学の際も、3週間で進学校に受かってしまったがために少し鼻高。ここまでは、小学校の頃に勉学貯金と習い事をたっぷりさせてくれた教育ママゴンだった母のお陰だ。そう考えると公文ってすごいですね。まあ公文だけじゃないんですけどね。

そんなこんなで大学受験。その頃は、もっと自分の世界を広めてみたいという気持ちや人々や国同士の架け橋となりたいという思いがあり、国際関係や言語に強い大学を志望。(人々の架け橋って国際関係の勉強だけじゃなくてもいろんな分野に関連してるんですけどその時は架け橋=国際関係って思い込んでました。高校生というまだ社会を全く知らない状態で専攻決めて将来何するか決めるなんて無謀。日本の中学以降の教育方針にはいろいろ問い掛けたいことがある。)どうせ受験するなら国際関係で1番強い大学を、国立を(これは親の国立志向が影響)、という思いで勉強。でも受験勉強そんな甘くないんですよね。届かないレベルを目指してたわけではないけれど、それまでの経験で少し鼻高になってしまっていた私は見事にそこで躓いた。

これ振り返ってみるとの話で、その頃は受験生なりに必死に頑張ってたんですけどね😅

そんなこんなで滑り止めの大学に入学。最初の一年目は、これでも国際系には強い大学だし、学生の期間に留学もして英語も勉強も頑張ろうと張り切った。まあそこら辺にたくさんいる大学1年生あるあるです。でもどんどん、受けられる授業と自分の興味とのギャップ、留学にかかる莫大な費用という現実に気づかされていく。もともと勉強が好きというタイプでもなかったため、どんどん理想の意識高めの大学生からは離れていった。

そんな中、一つだけ本当に熱中できたものがあるとしたらフライングディスク(アルティメットフリスビー)だ。なんならこれのお陰で大学生活においての後悔はほとんどない。大学生になるまでこれといったスポーツを本格的にやったことがなかったから初めての挑戦だった。体育の成績は良い方だったが、中学は韓国(韓国の学校は日本みたいな部活動がない)、高校は大学受験に専念しろと週3でマンドリンギター部(運動部に入りたかったが全て週5だったため断念)という様に、ずっと体育会系部活に憧れていた。そして、今までオールマイティと周りから言われるものの何か物足りなさを感じていたため、何かに投入したい特化したいという気持ちで始めた。

私の大学のチームは、女子は常に人数ギリギリで運営していた。(大学に入ってまで体育会系の部活でバリバリ運動したい文系女子って希少)だけど、人数が少ない割には少数精鋭で、地区選抜代表メンバー、さらには日本代表も輩出していた。フライングディスク部のことを話しだすと止まらなくなるので、これまた後日別に投稿しようと思う。

この間、大学2年3年時は関東代表として地区選抜出場。大学2年時、日本代表も選考を受けにいったが、実力不足で二次選考で落選。その後大学四年時にチャンスがあるはずだったが、コロナで国際大会は行われるはずもなく、最終的には日本代表という最大の目標は果たせなかった。

また、大学2年から3年にかけてチームのキャプテンも任された。これまで、〇〇委員とかリーダーポジを全くやってこなかった訳では無かったが、好んでも来なかった。誰かに推薦されたやるか友達に誘われたら一緒にやるとか、全部受け身でやってきた。だが、この時は違った。多分この頃の自分は本当に自分から自分の殻を破って挑戦しようという意欲が強かったのだと思う。もちろんこの時も、同期からお願いもされたが、何よりも自分からやりたいという気持ちが強かった記憶がある。山あり谷ありの代持ちだったが、その分同期との絆は深まったし、いろんな人に出会い助けられ成長できた。

実は部活動、最初の1年半ほどは親にいい目で見られていなかった。お金もかかる、飲み会も多い(ほぼ飲みサーならぬ飲み部。活動めっちゃしっかりするけどそのぶん飲む感じ)、大学は勉学のため等々。奨学金もらってるにしろわざわざ大金払って行かせてるんだから親の立場で心配するのは当然だったと思う。でも、2年時に関東代表に選ばれてからは応援してくれるようになった。岩手まで行かなければならなかったのだが、出発する日の朝に“頑張って”と言いながら1万円を渡してくれたんです。金額とか関係なしに“がんばれ“の一言がその時どれだけ嬉しかったか。認めてもらうためだけに頑張ってきたわけではないが、一つ親の信頼を勝ち取った勝利感が味わえた。その後、三年時の大学予選には福島のJビレッジまでわざわざ見に来てくれるなど、たくさん支えてもらった。本当に真剣に投入すれば人の心も動かせるのだと学んだ。

この部活動のおかげで、挑戦することの楽しさ、チームビルディング、リーダーシップ、人との輪の広がり、かけがえのない仲間、小さいけれど確かな自信、等々たくさんのものを掴み取ることができた。岩手、新潟、富士、福島、熱海、台湾、いろんな場所に行き、他の大学のプレーヤーたちとも仲良くなり(多分関東の日東駒専以上なら全部の大学に知り合いできた)、最高の選択だったと思う。

‥続く

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後から調べて知ったんですが、こんなサイトもあるみたいです。これ読んでから投稿書けば良かった‥

自分史アルバムなんかもいずれ作ってみたいな.・゚


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