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戦っているのは自分だけじゃない

【ミオクローヌスてんかん】
日本全体の数千人単位で稀な病気。進行性の経過をとり、不随運動(体の一部が一瞬ピクッと勝手に動く)とてんかん発作(全身のひきつけ、意識消失発作)を主な特徴とする慢性の脳の異常によるもの。主な原因は遺伝や体質であるが、立証されていない。

 大発作が起こる前から症状は出ていた。朝食を食べる時、無意識に手がピクっと動き、牛乳や味噌汁を落とす日々が続いていた。まさか、私がてんかん持ちである、と家族はもちろん、私自身も知らず、
「きちんと目を覚ましなさい。」とよく注意された。

 中学2年の時、リレーの選手に選ばれるため、プレッシャーを感じながら毎晩体幹トレーニングをしていた。
ある日、朝起きていつも通り牛乳をこぼし注意された。夜全く眠れていないわけではない。なかなか目をしっかり覚せないのだ。しっかり目を覚ますため、顔を洗おうと洗面所に向かった。そこからは覚えていない。目を開けると担架で病院に運ばれており、名前や生年月日が分からなかった。少し時間をおいて意識がしっかり戻った時には、吐き気が止まらなかった。
 
 中学2年生で診断された、ミオクローヌスてんかん。完治することは難しく薬と付き合っていくことになる。幸い私の症状は軽いものであり、また自己管理できる年齢で発症されたため、自身でコントロールできる。
私の症状が出る原因として多いのは、睡眠不足•ストレス•光過敏だった。不随運動はいつ出現するか分からないため、5年以内に発作があれば運転免許を取ることはできない。

 高校生になり、毎朝のピクっとする不随運動はあるものの、大発作はなく落ち着いていた。
 看護の専門学校に入学し、実家から車で3時間の場所ではじめての一人暮らし。母親が心配し、毎日のように「今日は大丈夫?ピクっとした?」とメールが来る。
自分の病気を大事のように捉える心配性の母親が正直面倒くさかった。成人になりお酒を飲めることで、母親に「もう帰った。」と嘘をつき夜通し遊ぶようになった。そのため、看護学校では意識の無くなる大発作が数回あった。その度に母親は仕事を休み、3時間かけて会いにきていた。3ヶ月に1回ある診察で、薬の残量が多くきちんと飲めていないことを指摘された。姉からは「あんたは倒れるだけやけど、お母さんがどんな心配してるか知ってんの?」と度々怒鳴られた。3人兄弟で、私だけが病気を患っており、健全な姉と兄が羨ましく、「私だけ病気持ちに産んだんやからそんなん知らん!」と強い口調で言い返すこともあった。

 専門学校を卒業し、看護師になった。急性病院で忙しく、毎日のプレッシャーと夜勤による昼夜逆転で、心も身体もボロボロになった。主治医から「てんかん持ちやし、夜勤はやめたら?」と伝えられ、夜勤を辞め日勤専属で働いた。給料は−8万になり、日々の業務と給料が比例していないことが原因で、3年で退社。
夜勤がなければ看護師の給料なんて良いものでない、と母親に電話越しで愚痴を言ってばかりの毎日だった。

 その後、夜勤のない訪問看護に入社。
特にストレスなく落ち着いて過ごすことができていた。そんなある日、実家に帰った際に母親の寝室で兄弟の名前が書かれたノートをみつけた。自分の名前が書かれたノートの隙間にスケジュール帳があり、そっと覗いた。それは、私がてんかんと診断されてから一人暮らしになるまでの約5年間の発作記録だった。

「4月8日 朝2時10分 右手ピク×3  寝息あり
 4月9日 朝5時40分 左手ピク 朝こぼしなし
 4月10日 ピクなし 欠伸が多い 元気そう
 4月11日 朝右手ピクこぼしあり 大丈夫かなあ
 4月12日 診察→薬変更?副作用多くなるどうしよう
      脳波問題なし 運転免許難しいかな 」

小さな症状だけでなく、その当時の母親の気持ちが少し書かれている走り書きの文章を見て、涙が出た。
この5年間、母親はいつ眠っていたのか。
持病を抱えた自分だけが辛いとずっと思っていた。
自分の服よりも私たち子供の服を買い、
私たちの食べ残しを夕飯にする母親の姿を思い浮かべ、
自分の今までの発言や行動を思い返した。
なんて親不孝者なんだ。
私は決して1人で生きているわけでない。
これからは自分で自分を管理しよう、遅ながらに決意した瞬間だった。

 服薬カレンダーをつくり、少しでも不随運動があればすぐに横になる。夜23時には布団に入り、規則正しい生活を心掛ける。ストレスを無くすのは難しいが、元々考えすぎる性格であるため、休みの日はゆっくりすることや読書をして心を落ち着かせた。意識をすることで、不随運動すら無くなり来年で3年目になる。薬の量も、主治医と相談し調整して少しずつ減っている。

 てんかんは、遺伝する可能性がある。
そして、てんかんの薬は子供に障害を与える可能性もある。結婚し出産することがあれば、これから沢山の壁が私の前に立ちはだかっている。私はどうなっても良いから子供だけは健康に生きてほしい、母親になっていなくても母親の気持ちがようやく理解できた。
私の周りには、病気を理解してくれる人がいて、
そして自分も前向きに向き合っている。
自分の命は自分だけのものではない。
「持病がある」響きは良くないが、
「持病があるにもかかわらず」普通に接してくれる
友達や心配してくれる家族がいることを当たり前でないことを理解する。
そう思わせてくれる持病に感謝し今後も向き合っていく。