聞き上手と己の本心

「人の話を聞くことなんて誰にでもできる」そう思ってた時期が私にもありました。ただ適当に相槌を打って好きなだけ話させてやればいい。話すよりよほど楽だ、と。
 でも病院にかかり始めててから「人の話を聞くこと」についての重要性を知った。また身内からさんざん愚痴やら悩みやらを聞かされて、話を聞くことの大変さを思い知った。こんなこと、無償でできるわけがない。ただ一方的に話されるのはとてもしんどい。どんな返しをしても「え~…」とか「うーん、でも…」と繰り返されるだけ。結局は聞いてほしいだけ。楽しい内容ならともかく暗い内容だと聞いてる方も気分が落ちる。話を聞くことはつまり共感だ。最初は楽しい傷の舐めあいだけど、でも何度かやっているうちにいい加減うんざりしてくる。いつの間にか相手に苛立っている。本当に悩んでいるのか、とか。直す気があるのか、とか。そういう言葉を投げかけて傷付けたくなる。こんな風に思うのは多分、もう聞くのが嫌になっているからだ
人の話を聞いて、それを共感して、助言する。一見誰にでもできそうなことだけれど本当はそうじゃない。
だから心療内科がこの社会にあってよかったと本当にそう思っている。もしもこれに「え?金取るの?w誰にでもできるでしょw無料にすればいいじゃんw」とか「無駄」とか「やる意味あるの?」とかいう奴がいたらぶっ飛ばしてしまうだろう(仮想敵を配置すな)

 どちらかというと私は「聞き下手」の方だ。いや、昔自分では上手い方だと思っていたのだけれど。例えば相手の話を聞いても「へ~……………で私はさ~………」と自分の話へ切り替えたりとか。ひどい時には相手の話を途中で遮ったり。本当に"聞き流していた"のだ。ここでわかるのは「相手の話を聞いていない」ことと「本当は自分が話したい、聞いてもらいたいと思っている」。そう、本当は自分の方が何かを話したい 聞いてもらいたい

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 以前から何度も「友達がほしい」と繰り返してきた。が、その言葉を繰り返すだけで「じゃあ貴方は友達と何がしたいの?」という肝心の部分は考えていなかった。
友達がほしい、と考えた次に思い浮かぶのは「でも誰も私に興味なんてない、迷惑がられる、申し訳ない」という気持ち。多分だけど 私にとって"友達"で形容しているのは「私の話をだだ聞いてくれて、私の行きたいところにもついてきてくれて、くだらないことにも付き合ってくれる人」のことだ。本当は他人に興味がない 自分のことしか関心がない。自分の話を聞いてほしいだけ そういえば友達がほしいのに他人に合わせるのを煩わしいと思っていた。世間話とか、あてのない散歩とか。相手の行きたいところについていく、とか。そういうのは各自でやってくれと思っていた。ああ それ相手に興味が無かったのか。いろいろ求めすぎていたのか。他人を人間と見ていなかった 都合のいい人形としか見ていなかった。なるほどなあ それじゃ友達というか人と関わるのは難しいね……
そういえばなんでこんなに苦しいのだろう どうして自分にしか関心が無いんだろう 考えを発散する場所が無いからなのか?わからない 私には友達はほぼいないし家族にすらあまりプライベートなことを話さない。今日の楽しかったこととかムカついたこととか。そういうのを発散とか広める手立てを私は持っていない。これのせいなのか? 不安とか心の問題は病院で発散できるからいいとして…

なんだかよくわからなくなってきちゃった もう寝よう そういえば話し相手がいない時は置物やペットに話しかけるのもいいんだって 何度か聞いたことあるけど「んなバカな」と思って流していたよ でも本当に相手がいないからぬいぐるみに話しかけてみた 結構よかったです