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『作品48 』 おれは夢を見ていたのか

机の前の壁に出来た、顔のようなシミ。
男は長い間その存在に気づかなかった。
シミはヤニ色に染まった壁の中で息をひそめ、そのときをじっとうかがっているようだった。奥行きのある瞳、薄い唇、薄茶色のそれは微笑でもなく、泣きべそでもない、表情というものをまったく感じさせなかった。ただ一途に、男をみつめているだけであった。
男は何時間もシミをみつめた。睨めっこなら自信があったのだ。おれはそう簡単には笑わない、おまえなんかに負けてたまるか、ん、むむ……ぷはっ。よしもう一度。むむむ……むむむ……そうきたか、ならばこちらも……あはは。それもう一度。むむむむ……今度こそ、それ、あ、ん、それそれ、むむむ……むむ……わーはっはっはっ。男は睨めっこを四十九回繰り返した。シミは誰かに似ていた。男は顎髭に触れた。どこかで見たような……。男は頭を掻いた。しかしどれだけ考えても、どこの誰なのか、性別すらわからなかった。

はて?

その奇形な顔が膨張しているように見えた。気のせい、気のせい、睨めっこをし過ぎたせいで目がおかしくなっちまった、目薬でも……

視線。

それはあきらかに視線だった。
男はその冷たい視線に刺し抜かれた。視線は男の胸を貫通し、部屋の壁にぶつかり四方八方へ飛び散った。飛び散った視線の先にはやはり男がいる。男がそこにいるのだから仕方がない、視線は男の背中を貫通し、壁にぶつかりまたもや男に跳ね返ってくる。そして男は頭蓋を、胸を、背中を、臓器を、膀胱を刺し抜かれた。男は己の醜態を、己の嘘を、己の自惚れを、すべて見られているようで、恥辱のあまり死にたくなった。おれは疲れている、疲れているだけなんだ。男は言葉を発しようとしたが声にはならなかった。そうしているうちにもシミはゆっくりと、一定のリズムで揺れ動きながら膨張していた。膨張しながら男に視線を投げかけ続けていた。そしてついには、奇形で巨大な顔としてのシミが男の目の前に現れた。男を円の中心に置き去りにし、ゆっくりと時計回りに回転を始めた。膨張と縮小を何度も繰り返しながら。同時に部屋の天井が下降しながら歪み始めた。四方を囲った壁は男に迫ってきた。男の脳内から、太鼓を叩くような音が鳴り響き始めた。それが耳の裏側にこびりつき、離れなくなった。遠くから、近くに。近くから、遠くへ。胸の鼓動が速くなった。男は堪らず目をつむった。両耳を押さえた。掌がべたついていた。腋の下には異様な汗。息が出来ない。身体がこわばる。男は自分の硬直した体がどこか大きな、何もない空間に投げ出されるのを感じた。
男は囲まれていた。何もない空間と天井に。壁に。音に。奇形で、巨大な、顔としてのシミに。じっと、見られ続けながら。

やめろ!
悪ふざけはやめてくれ!

奇妙な奴が現れた。
それはとても厄介な奴だった。いつ現れていつ消えるか分からない、柔らかくて掴みどころがない奴。それが不意に、過去の後悔と、閉鎖的な未来を男の目の前に映し出した。映像はゆっくりと男のぐるりを囲み、莫大な量で広がっていった。男はその中を漂うことしか出来なかった。

『おまえは今まで何をしてきた?』

冷静に対処しなくてはならなかった。
男はありとあらゆる思考回路を使った。醜い形相で答えを探した。四つん這いになりながら考えた。意識が溶けていった。身体が散っていった。そのときの、今見えている景色や匂い、音、肌の感覚、感情、それらすべてがつま先から込み上げてきた。

嘔吐。

『おまえは何も変わらない』

これは破滅の思想に追い込むのか? 次のステップに立たせるのか? 懺悔や予言を孕んだ塊。それがいったい何であるのか、男にはわからなかった。


『おまえは何度も同じ事をくり返す』



背後から、細波の引いていくような音がする。
ある種の異様な、えたいの知れない、薄く鋭利な冷気が一瞬、背部をかすめ通り過ぎる。その微かな音は、ジェット機の爆音のように、男の耳をうち抜く。落雷に撃たれたように、男の脊柱を熱く焦がす。男は一点みつめのまま、唾を飲み込むのも忘れる。全身が大きな力に握り締められたように硬直している。毛穴をすべて塞がれたように息苦しい。
男は呼吸を整える。

夢か。

微かな息。背中に感じる。男はゆっくりと寝返りを打つ。

女が眠っている。

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