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『作品48』独白

女の眠っている顔がいつもとはまるで違って見える。今にも何かを語り出しそうだ。男は眠れない。ベッドから起き上がり、部屋中を歩き回る。どうすれば、自分でも聞こえないような声で。どうしたい、自分でもはっきりと聞こえる声で。男は独りごちる。
壁掛けの時計は午前三時を回っている。秒針が焦り始めている。一秒を一秒以内に。後戻りはしない。何かが壊れていく。一秒ごとにひとつずつ。その響きが男の部屋をひどく空虚なものにしてゆく。男は世界から孤立させられる。静寂だけが男と向き合い此処に固定させる。世界のどこかで男の部屋は存在している。男の部屋には机がある。机上には読みかけの本が置いてある。男が何度も読んだ本。しかし印刷された文字はもう何も語りかけてはこない。頭の中で雲散霧消していく。男はもう本すら読めない人間だ。オーディオから新しい曲が薄く流れ始める。オルガンの保続音、ハープ、ヴィオラの分散和音。そしてソプラノ合唱が歌い、たくましいテノールが交差する。やがてヴァイオリンの対旋律が穏やかにからむ。男は耳をそばだてる。曲が一気に高みへと昇りつめる。ソプラノとテノールは手を繋ぎ合い、その高みから男に囁いてくる。生ぬるい水に全身を浸し、首だけ浮いているような浮遊感。それがある種の洗惚と不安を与える。心地よさと息苦しさの共存。静寂の前の狂気、狂気の後の静寂。えたいの知れない興奮。全身が小刻みに震え、鼓動が高鳴る。男は喉の奥の荒い流れを抑える。
「綺麗かな。きれいかな。キレイ、かな」男は自分の手をみつめる。
椅子に座る。椅子が窮屈な音をあげる。机上の冷えきったコーヒーをひとくちすする。腐ったゴムの味がする。食べかけのモンブランをかじる。吐気が込み上げてくる。煙草を取り出し火をつける。大きく吸い込み煙を吐き出す。閉め切った窓から抜け出せない煙がとぐろを巻くように、ゆるやかに天井に向かってゆく。部屋中がくもり始める。室温が急降下する感覚。やけに寒い。冷たく濁った重い空気が男の足元へ流れ込む。男は大きく身震いをする。オーディオからボーイソプラノの独唱が聴こえる。静かな歌声が男を包む。柔らかく優しいメロディー。
「安息を。永遠の、安息を」男は叫ぶように歌う。
煙草の灰がこぼれ落ちそうなことに気付く。男は灰皿を引き寄せよる。

違う。

いつもと、違う、灰皿が、やけに冷たい、この冷たさ、溢れそうになっていた煙草の残骸、どこにいった、きれいになくなっている、おれが……いや……女だ、眠りにつく前、そっと、捨てたんだ、女が灰を捨てたんだ、女は気付いている、すべて見通している、おれが眠れずに夜通し起きていることを知っている、おれが机に向かってくだらない妄想に耽っているとき、じっとその姿を見ていたんだ、女は眠っていなかった、おれの後ろ姿を見ていたんだ、夜になると眠れない、おれのたった一人の戦いを、女はそれを知っているんだ、ただ言わないだけだ、黙っている、大切な事を何も言わず、じっと黙っているのは、おれじゃない、この女だ、おれは気づかなかった、灰皿にまで目を配らせている女の存在を……ホンモノの愛情は、霧深い夜の闇に光る眼差しではなかったか、おれはそんな人間に成りたかったんじゃなかったか、おれは長い交際を経て、いつのまにか女に希望よりも、失望を見出すようになってしまった、おれは何か途方もなく大きなものに追われている、女との付き合いが長くなるにつれてそれは大きくなっていく、倦怠、そういうものとも違う、たいていのことは言葉にしなくなる、何かに気づいても気づかぬふりをするようになる、自分で思い描いている事を、嫌な事も、二人の将来についてでさえ、曖昧にするようになっていく、今まで美しいと思っていたものを見ても、聞いても、何も感じない、幸福を素直に受け入れられない、おれは女を受け入れるようにして、自分だけを思っていたんだ、女はそれでも従順についてくる、このおれに将来の燭光を見ていたんだ、おれたちは二人にしかわからない名前で呼び合った、饒舌に語り合うことさえ出来た、女は息継ぎも出来ないくらいに口を広げ、頭を一杯にして語ったんだ、思い描いた言葉の羅列を、そのまま吐き出すように、おれはそれを了解し、大袈裟なリアクションで応えてきたつもりだった、それで成り立っていたんだ、そうだろう? 女は風景を、おれを通してみつめていた、その視線の内には常におれという男がいた、その眼差しの内におれは存在していた、おれは知らなかった、まるで気づかなかった、おれは本当に笑っていたか、本当に語っていたか、まともに、女の顔をみつめたか、ああ、おれは、自分の内で最も卑劣な感情から、女を犠牲にしてしまった、退屈な生活の、気を紛らわす逃避の手段として、自分が呼吸している事にも気付かないように、この女を、その存在を、受け入れてあげることができなかった、ああ、オーディオから美しい合唱が聞こえる、子羊、神の子羊、そうだ、おれが、子羊なんだ、本当は、なんにも出来ない子羊なんだ、やすらぎ、やすらぎが欲しい、たった一つの安らぎを、永遠の安らぎをください、おれは、女を黙らせてしまった、女は必死だ、半狂乱で生きている、命がけで進んでいる、まっすぐにみつめている、遊びじゃない、女はおれの左側にいたいと言った、ああ、おれは……愛という助手席を忘れた、おれは若さを捨て切れずに、全てを捨てようとしていた、おれは嘘吐きだ、嘘こそが真実、それすらもすでに嘘なのだから、おれの努力なんて、女の微笑ひとつにも敵わない、女への侮辱、涙の日、灰色の日、ああ、蘇りたい、われを許したまえってオーディオが歌っている、今夜のように、恐ろしい日に、試練の日に、許したまえ……おれは自分の力を過言しすぎた、盲目的なその力を持て余した、おれは女に、女を……おれと女、この部屋に二人でいるようで一人だ、おれは女とはいっしょにいなかった、一人のときのおれと、二人のときのおれは違う人間だった、もはや未来へと繋がっているおれではない、このおれは過去のおれとは違う、未来へのおれとも違う、おれは、不在です、いま眠っている女、過去の女、みんな、不在です、ならばこの女、あの女、みんな並べて、ダダダダダー、二人なのか、一人なのか、おれたちの周囲に存在する生真面目な空気、それが凶器だ、おれたちは無言という鎖で縛りあげられた、おれが黙れば女も黙ってしまう、ああ、なんて興醒めなんだ、この現実、全てが分かるということは、全てに悲しいということなのか、ああ、なんという虚無、いっさいがすぎてゆく、それにしても……だいたい、この女、あいつと……こいつは誰だ、おまえは誰だ、そもそも、おれは、何だ、現実は……痛い、いたい、イタイ、気持ちいい、誰か、このおれに塩水をかけてくれよ、傷口にかけたら痛いんだろうな、あっ、そうか、消毒か、そうそう、もっとかけて、もっといじめて、おれをもっと楽しませて、ママの胎内にいる赤ん坊、それだ、ふわふわ浮いて、ゴトゴト沈む、もがきながら、浮かんでいる、誰か、おれを、ぼくを、このまま消えてしまいたいぐらい……そう、マイルドに、おれは、ぼくは、正気だ、ああ、ママ、確かにあるんです、この掌の中に、あるんです、大切なものを、握っているんです、でも、実態がないんです、指の隙間からこぼれていくんです、ああ、これは予行演習、いったいなんのための? あぁ、おれは、ぼくは、間違っていなかった、これが、ぼくの、たった一つの真面目なんです、ぼくはママの股をくぐって生きてきた、大女のママ、その手を離さないで、なんにもつかめそうにないから、誰ともつながらないよ、どこかへ飛んで行っちゃいそう、夜の摩天楼、昇る、のぼる、夜空を見上げて、世界の高みから、まっさかさま、笑顔でダイビング、きらきらキレイ、最近じゃ、大きなビルも、崩れるってね、何を見るの、何を言じるの、そのたびに、動けなくなる、ママ、ぼくを笑ってよ、ふわふわしながら、膨らんで、ふくらんで、破裂しちゃう、まあるい、まあるい、地球儀の中のぼく、おっきな、おっきな、土だんごの中のぼく、ちいさな、ちいさな、この部屋の中のぼく、汚れきった、水槽の中のぼく、ここから、どこにも抜け出せないよ、すみません、誰かぼくに話しかけてくれませんか、本当の態度で、本当の言葉で、根無し草のぼくに、枯れろ、咲け、ああ、ぼくに塩水を、枯れる程の、潤う塩水を、弛緩されてゆく肉体に、塩水を、強力な刺澈と、癒しを、ちょうだい、ああ、ママ、もうすぐ、パパの命日だよ、飲めないお酒を毎日ムリヤリ飲んで、階段から落ちて死んじゃった、パパ、あの日も朝から、お酒を飲んでいたよ、ひどく酔っ払っていたよ、病院に運ばれて意識不明のまま、眠るように死んじゃった、それからパパの顔がどうしても思い出せなかったよ、どんなに思い出そうとしても思い出せない、どうしても顔だけが、ぽっかりと開いた空洞みたいに、真っ黒になっちゃって、パパは、弱すぎた、お酒がいけなかった、パパは、優しすぎたんだ、パパはもう、ママを叩かないよ、そうすればママは、ぼくをそんな目で見ないで、ああ、パパ、あなたは家庭に暴力を持ち込んだ、ああ、ママ、あなたは家庭に無関心を持ち込んだ、ぼくは良い子になりすぎたみたいなんだ、ママのおっせかい、パパの弱さ、微笑を絶やさず、受け入れてきたつもりだった、誰にも迷惑をかけずに、生きてきたつもりだったんだ、最後に肯定してくれる人たちよ、ぼくは外では成功だけを願って生きてきた、でも家に帰れば、ベッドの上で天井をみつめることしかできなかった、ぼくは泣きながら、道の真ん中を笑ったふりして、歩いてきた、パパ、ママ、いまぼくは、こんなに大きくなりました!

閃光。

部屋中が明るい。男はあまりの眩しさに思わず目を細める。目尻に涙が溢れている。景色が丸みを帯びてゆく。朝のイルミネーションが部屋中に満ちていく。男は光を全身に浴びている。男の内に今までとは違う何かが身込み上げてくる。
男は煙草に火をつける。胸いっぱいに吸い込み煙を吐き出す。煙は天井へ昇り、朝の光の中に消えていく。オーディオからは「レクイエム」の「楽園にて」が薄く流れている。男は女の名前を呼ぶ。女は起きない。壁掛けの時計は四時三十分を回っている。男は空腹を抑えきれずにいる。

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