認知症のじいちゃん
母方の祖父が認知症になってしばらく経つ。
だんだん孫や娘の顔を見ても名前が出てこなくなり、今では一緒にいても関係性が分かっていないようだ。
「おじいちゃん、こんにちは!来ましたよ」と言うと「おたくの名前は?」と聞かれるので「まほこ!あなたの娘の娘、孫です」と笑顔で答える。
「そうか、まほこか」と頷くが、3秒後には忘れてしまうので「で、おたくの名前は?」と聞かれる、といった具合だ。
短時間の間に同じことを何度も質問するのは、認知症の典型的な症状だと思う。
私は10年前に父方の祖父母と介護のために同居していた期間があり、当時祖母が認知症を患っていたのでこういったことにはほとんど慣れっこで、何度同じことを聞かれようと、何度も同じように「私はあなたの孫のまほこです」とにこやかに答える。
ここで大切なのは「それさっきも言ったでしょ」と言ったり怒ったりしないこと。祖父の記憶(特に短期の記憶)はその場でリセマラ(リセットマラソン)されているようなものなので、それこそRPGに出てくる村人Aのように、何度でも説明する。
それに、ここで怒ったりすると「自分が口を開くと、人が怒る」と思ってしまい、口数が少なくなったり喋ることそのものが嫌になってしまうかもしれない。
喋らなくなってしまうと、今後例えば身体のどこか痛いとか生活の不具合があったりしても、祖父自身が訴えにくくなってしまう可能性がある。
だから、とにかく大切なことは傾聴すること。
(ちなみにこの傾聴っていうのはNHK番組の「ねほりんぱほりん 介護士編」で学んだ受け売りだ。)
じいちゃんは長年教諭をしていて、高校の校長まで勤め上げた人だ。
それもあってかとてもマメな人で、私が名前や年齢を聞かれて繰り返し答えていると「ここに、名前と年齢と今日の日付を書いておいてくれないか」と紙と鉛筆を差し出してきた。
書いて渡したけれど、名前の漢字を見ても特に何かを思い出したような様子は無かった。
私は物心つく頃から愛知県に住んでおり、祖父母宅は神奈川にあったから、中学生までは夏休みになると毎年のように母の帰省について行っていた。
私にとっては毎年楽しみな小旅行だった。
滞在期間は1〜2週間程度で、朝起床し、祖父母と妹と母と共に朝食をとり、夏休みの宿題をこなし、それが終わると近所に住んでいたいとこたちと庭や畑を駆け回って遊ぶのがだいたいの過ごし方だった。
じいちゃんは家の裏にある広い畑をずっと世話していて、夏になればトマト、きゅうり、なす、とうもろこし、ピーマンなんかを栽培し、
秋になれば大量のさつまいもが収穫できるといった具合だった。
柿の木やみかんの木もあって、農作物が出来る度、祖父母は度々愛知県の我が家へ送ってくれていた。
喉が渇いたら水を飲むんじゃなく、畑に実ったトマトをかじるなんて、今思えばずいぶんと贅沢な幼少期を過ごさせてもらったなあと思う。
以前、祖父母がミニトマトを箱いっぱいに詰めて送ってくれたことがあり、お礼の電話をしようと母に促されて電話したときに私が「じいちゃんちから送られてくる荷物はいつも宝石箱みたいだね」と言ったのが印象的だったらしく、その後も何度か嬉しそうにその話をしてくれていた。
「まほちゃんがそう言ってくれるのが嬉しかったからね、今年も送ってやらなきゃねってばあちゃんと話してたんだよ」とじいちゃんは何度も言った。
いつしか、年を重ねるにつれて祖父母宅へ行く機会は少なくなっていった。
部活で忙しくなったり、受験があったりなんかして、それぞれのいとこも大きくなり、みんなで集まる機会はどんどんと少なくなっていった。
気づいたらじいちゃんは89歳になり、今年で90歳になるという。
しゃんとしていた背筋も、どんどんと曲がって、随分と体は縮んでしまった。
体が思うように動かせないので、畑もやらなくなって、昔みどりでいっぱいだった畑もすっかり殆ど更地になってしまった。
以前は車も運転していたけれど、娘たちの説得で免許の返納と車の売却をしたようだった。(たぶんそれは10年くらい前だと思う。)
車がなくなってからは自転車で移動していたけれど、いよいよ自転車でも繰り返し転倒するようになってしまったから、娘たちに説得されてこれまた乗らないようになった。
こうなってくると老いるのも早くて、あんなにチャキチャキとしていた祖父もあっという間にシワシワで少し無口な老人になってしまった。
昔は顔を出せば「お!来たか!」と満面の笑顔で迎えてくれていたから、今顔を出すと「どちら様かな?」と少し怪訝な顔をされるのは少し寂しい。
でも老いるということは、出来ないことが増えていき、忘れることも増えていくことだと思うから、これは自然なことなのだと思う。
この頃は著しく祖母の具合が悪く、介護の手が全然足りていないため、可能な限り顔を出すようにしている。
祖母は家にいる間に転倒したのが原因で圧迫骨折をしたようで、治癒のためベッドで安静にしていたら、思うように歩けなくなってしまったようだった。
人の補助がないと歩くのが困難だ。
正直に言ってしまえば、祖父母の二人暮らしが限界なのはもう目に見えていて、しかし施設に入るのも今のご時世難しいらしい。
娘夫婦や孫たちが入れ替わり立ち替わり祖父母宅へ通い、あとはヘルパーさんなんかに来てもらいながらギリギリでやっている。
10年前、父方の祖父母との同居から感じてきたことではあったけれど、日本で介護をやっていくっていうのは本当に、想像以上に困難で苦しいことだと思う。
先日も母方の祖父母宅へ顔を出してきた。
じいちゃんとばあちゃん、うちの両親と一緒に夜の食卓を囲んだ。
ばあちゃんは座っているのがしんどそうだったけれど、ご飯は食べてくれた。
じいちゃんは昔から酒を飲むのが大好きで、今でも夜の晩酌は欠かさないようで、1人でも日本酒をポットに注いでレンジで温めて熱燗にして飲む習慣を全く忘れていないので凄いなと思った。
私と父とで少しずつお酒をもらった。じいちゃんは嬉しそうにしていた。
左利きの私が、左手で箸を持っていることに気がついたじいちゃんは、「へえ!サウスポーか!男の子だったら野球で有利なんだよなあ」とか「へえ、あんた左利きなのかい」とか「滅多にぎっちょ(※左利きのこと)なんて見かけないよなあ」などと、夕食の間に4〜5回私が左利きであることに驚いてくれていた。(どの言葉も初めて気がついたように驚いていたから、気がついたことをすぐに忘れてまた気がついていたんだと思う。)
私たちが娘家族であることが多分わかっていないので、じいちゃんからしてみれば「ちょっと親切にしてくれる赤の他人あるいは給仕さん」と食卓を囲んでいるようなもんだと思う。
だから話題の切り口に困っていると思うのだけれど、私の左利きが思わぬところで役に立ったなあなんて少し嬉しかった。
それから、私が昔みんなでよく利用していた箱根の宿泊施設の話をすると「あんた、そこ知っているのかい!」とじいちゃんは驚いていた。
認知症になっても忘れていないエピソードっていうのがいくらかあるようで、話をしているうちにそれに触れることが出来ると「自分が理解出来ることを相手が話すこと」がじいちゃんにとって嬉しいようで、顔がぱっと明るくなったのが印象的だった。
最近、認知症のじいちゃんと話をしていて面白いのが、唐突にじいちゃんが外国語を流暢な発音で発語することだ。
「いやあ、グレイト!」とか「ダンケシェーン」とか言うのだ。しかも使い所も意味もどれも間違えていない。
ちなみにじいちゃんは元教諭だったと言ったが、専門は地理だ。外国語ではない。
もっと若い頃には、よくばあちゃんと一緒に海外旅行していたから、その頃の記憶が唐突にフラッシュバックしているのかもしれない。
朗らかにじいちゃんが外国語を使うと、みんなで顔を見合わせて笑ってしまう。
本人が心地よさそうだから、いいなと思う。
みんなで談笑しながら夕食を終えると、じいちゃんとばあちゃん、それぞれを寝かしつけた。
じいちゃんに「また来るね」というと「はーい、お元気で」と大手を振ってくれた。
ばあちゃんは「みんなに世話になって、本当に悪いねえ」と呂律が回らなくなってきた口で、たどたどしくそう言った。少し涙ぐんでいた。
「みんな順番なんだから、お世話になることは悪いことじゃないんだよ」と私は言った。
ばあちゃんは「そう言って貰えると有り難いねえ」と言った。
孫の私に出来ることなんてそう多くない。歩行の補助をするとか、話し相手になるとか、優しい言葉をかけるくらいが精一杯だ。
それでも、祖父母本人や、介護に当たっている叔母や母たちが、日々の不安や苛立ちから、少しでも気を紛らわせるお手伝いが出来たらいいなと思う。
みんなが出来る限り後悔しないよう、日々や言葉や態度を大切に過ごしていきたい。
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