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令和元年、原爆の日(1)

8月6日。今日は原爆の日だ。
74年前の今日、1945年8月6日午前8時15分、広島県広島市に原子爆弾「リトルボーイ」が投下された。
核兵器が世界で初めて使用された日でもあった。

広島では同年12月末までに約14万人が亡くなったと推計されている。これは当時の広島市の人口の40%ほどにあたる。
3日後の8月9日には、長崎県長崎市に投下された原子爆弾「ファットマン」によっておよそ7万4000人が亡くなった。

私の祖父母は1945年当時広島に在住していて、被爆者だった。
投下された当日に爆心地にいたのではなく、原爆投下後、それぞれ兄弟を探しに広島市へ入ったのだという。
原爆投下から2週間内に爆心地から2km圏内に入った者は「入市被爆者」として定められていて、「被爆者健康手帳」を公布される。
2人はこの手帳を持っていた。
孫である私はいわゆる「原爆3世」にあたる。

祖父母とも10年くらい前に他界した。話を聞くことはもう出来ない。
祖父と私は80歳離れていたので、祖父が元気な頃は私は戦争や原爆に対して考えるには幼かったし、今ならもっと色んな話を聞いてみたいと思うけれど、残念ながらそれはもう叶わない。
祖父は第二次世界大戦時兵隊として戦線にいたそうだが、被弾したことで離脱したそうだ。
その結果、96歳くらいまで長生きして、4人の子ども、10人以上の孫、そしてひ孫の顔も見た後、家族たちに看取られて亡くなっていった。
私の祖父が戦時下命を繋ぐことが出来たことで今の私がここに存在しているのだと思うと、第二次世界大戦のことも、原爆のことも、他人事とは考えられない。
生前の祖父から聞いて覚えているのは、被弾して戦線離脱する時のエピソードだ。
実のところ、祖父や祖母から原爆のことについて直接話を聞いた覚えはない。
(私が幼少期だったから覚えていないという可能性もあるけれど)
でも、もしかしたら思い出したくなくて、話したくなくて、意図的に話していなかった可能性もあるんじゃないかと今になって思う。

3日後には長崎の原爆の日がきて、9日後には終戦記念日が来る。
テレビもここ数日、原爆や戦争に関するトピックスが増えてきたと感じている。
玉音放送の音声が流れたり、悲惨な戦争の姿を伝えるべく特集も組まれてるだろう。
終戦から74年。戦争を経験していない世代が現代の日本のほとんどを占めている今において、戦争の悲惨さやそれを忘れないための行為は必要なことだと思う。
人はすぐ色々なことを忘れてしまうし、駄目だと分かっていても過ちを繰り返す。
だから、記録して、それを後世にきちんと伝えていくことは大切で、必要なことだと思う。

でも同時に、最近の私はその伝え方について少し疑問に思っている。

(2へ続く)

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