人生最大の病み期

前回書いた『思春期』を読んで
私の文才の無さから母に対して
酷いとか、虐待だとか、
そんなネガティブなイメージは持たないで欲しい。
むしろ私が反抗期やり過ぎた。

私なんかよりも苦労した青春時代を送っていて
育った岩手を離れ大阪で結婚して、
やっと普通の家庭を手に入れたと思ったら、
父親としての自覚のない旦那と離婚して
シングルマザーになり、
親も親戚も頼らず文字通り女手1つで
私を育てたんだからめちゃくちゃ凄いと思う。
マジで尊敬してる。

母は身を粉にして働いていても、
いつもオシャレにしていて自慢だった。
私が小学生で「パパが欲しい。」と言った時は
数人彼氏を作ってきたし、モテる女だった。
連れてきた男はダメンズばかりだったけど。笑
「ママ男見る目無いから、もうパパは要らん。」
って言ったら彼氏は作らなくなった。
男に走るようなこと無く、ずっと私最優先だった。

厳しくしたのは、
あくまでも私が道を踏み外さないように。
母なりの愛情だったと思う。
当時は理解出来なかったけど、今なら分かる。


過去回想の続きを書きますね...


高校卒業後、住む場所を確保するために
私は地元の大阪を離れて
山梨のリゾートホテルで住み込みで働いた。

母とは喧嘩したまま、二度と帰ってくるかと
実家の鍵を玄関に投げ捨てて家を出たし、
夜行バスへ見送りは無かった。

なぜ山梨のホテルを選んだかというと
時給が高くて、食費光熱費家賃無料だったから。
そして、東京の隣りだから、多分都会だろう
休みの日は電車で東京に行こうと思っていたから。笑

実際は『富士山に近い』というのが
売りのホテルだったので、山の中に存在したし、
最寄り駅に行くにしても、送迎バスを使う距離。
東京まで夜行バスを使って2、3時間かかった。
東京どころかコンビニすら気楽に行けない。
イメージしていたのとは違ってド田舎だった。

一緒に働いていたのは、
地元を出たことがない世間知らずなおば様達や、
地元の男子大学生、ヲタクカップル、
色々訳ありっぽいおっさん達。

やっぱりここでも馴染めなかった。
というか、ああはなりたくないと思った。
馴染みたくなかったから、
朝と夜の仕事以外は
与えられた、太陽の光が全く入ってこない
暗い自分の部屋に引きこもった。
ちょっとした抵抗として、元々大阪の北摂出身でコテコテの関西弁は使わないくせに、
甲州弁に染まらないよう
わざとコテコテの関西弁を使った。

暗い部屋に引きこもっても
持参したemobile(現Ymobile)のPocketWiFiは
山の中では圏外だったし、本を読むには暗すぎた。
自分の置かれた現状を悲観するばかりで
どんどん心が病んでいった。
SNSには進学した友達の楽しそうなキャンパスライフで溢れていて、めちゃくちゃ羨ましくて悔しかった。身近な友達は親や親戚のお金で進学して、実家で生活しているのに、なぜ私はこんな田舎で引きこもっているのか?将来に希望を持てなかった。
リゾートホテルに訪れるお客様も家族連れが多く、同世代の子が家族皆でBBQする姿を見て、
仕事中なのに涙が止まらなくなってしまい、
誰にもバレないように隠れて泣いたこともある。

そんな生活を送っていた時、
一緒に働いていた訳ありっぽい15歳
年の離れたおっさんが、
俺の部屋で飲む?って声をかけてくれた。
弱ってた私は嬉しかった。

おっさんの部屋は私の部屋より明るかった。
地元も山梨らしく、部屋には生活用品が充実してた。
実家で良く流れていたような洋楽がBGMで、
ずらっと並んだリキュールでお酒を作ってくれた。(19歳でした。ごめんなさい。)
お酒を飲みながら久しぶりに仕事以外で
人と話をして凄く楽しい時間だった。
おっさんは、昔ホストをしていたらしい。
今はバーや、キャバクラ、風俗を経営していると聞かされた。(それなら何でこんなところにいるの?って話だけど、若かったし特別疑問に思わなかった...)
私も山梨に来る前、学歴も資格も無く、手っ取り早くお金と住む場所が欲しくて夜のお仕事を検討したこともあったし(体験入店まではやってみたけど、コミュ障で外見も愛嬌もトーク力も自信無いし、何となく怖くて、無難に山梨でリゾバに至った。)、ぼんやりと経営者になりたいという夢も持っていたので、おっさんの話は面白かった。

山梨生活5ヶ月経った頃、50万程貯金が出来た。
今思えば5ヶ月しか働かなかったのかと思うが、当時は1日が過ぎるのが凄く遅くて、1年は働いた気分だった。本当は100万貯めて英語を学びにワーホリに行きたかったが、山梨生活が辛くて限界だった。

東京に出て、留学の代わりに
品川あたりの国際シェアハウスに住んだ。

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