子どものこと

いやはや早速ひさしぶりの投稿になってしまった。

あっというまに過ぎ去る日々のように思えても、
心は確実に日常のなかのかすかな出来事をキャッチしていて

平和に過ぎてるようでいて、
蓄積していくものがあったりする。

それが良いものでも、悪いものでも。

書き出さないと忘れていくようなものは
たいていは大したことがないから問題はないのですが

書き留めていたい気持ちというか、
吐き出したいようなものも中にはあって、
忘れてしまいたくないような"気付き"みたいな
人知れずに持つ そういうものを、
iPhoneのメモや、いつもカバンに入れている手帳に書いておいてたりする。
(いやこのnoteに書けよっていう、そのためのnoteだろっていう)

そんなものを遡って、綴っていっていこうと思います。(順番はばらばらに)



ーーー 2022.12.12


とっくにあきらめてた。
あきらめられてたと思っていた。
むしろ、こうなってくれたことに意味があると思って、納得さえしていた。

そして、これから望むこともなく、いない人生の方が
明るく、豊かで、幸せだろうとも感じていた。

きっと生理前の情緒がこうさせているに違いない、
2、3日もすればまるっと切り替わり、こんな気持ちもまるでなかったことのように過ごすんだと思う。
31年も生きていると自分のパターンが読めてくるのである。

だけど、あえて今の気持ちを書き残そうと思う。





子供がほしい。


んーと、正確には"ほしい"とハッキリとした願望ともまた違う。

だけど いつぶりだろうか。

下腹部のいつもとちがうチクッとした痛み、
無性にのどが乾くかんじ、
子ども関連のツイートに指が止まるかんじ、
真夜中に「いいな」と心の底から湧きでてくる声のかんじ。
いちいち「妊娠超初期 症状」と調べてしまうこのかんじ。

わかってる。

きっと日本に一時帰国した先月に、
子どもに会いすぎた。

「家族」を感じすぎた。

よその家族を自分たちに当てはめる必要はない。
きっと、”自分は体験したことのない境地”に
ただ単純に、好奇心的な興味が湧いただけだ。

もとの、いつもの日常に戻って、
2人の幸せや、穏やかな日々を満喫していたら
そのうちこの気持ちはまた薄れて自分らしくいられると思うけれど。

でも、いつもの日常から離れていたからこそ、
その”環境の変化”に期待してしまうのも一理ある。

たった数パーセント、限りなくゼロに近い奇跡とやらを
なぜか信じてしまう。

この現象はなに?

親しい人たちが、そして親から自分に、兄弟に
愛おしそうに何の曇りけもない愛を向けるその光景は
意外にもキョーレツだった。

彼はまだ知らない。

しかし、”それ”を知らなくとも彼の人生は素晴らしく、
素敵で、誇らしいものであるに違いないし、
私が共に歩んで必ずそうする。

だから不幸なんかではないのだ。

だけど、もうひとつのパターンを
勝手に想像しては、
ほんの数ミリ、願ってしまうのです。
彼がいつか報われますようにと。

愛しているからこそ、静かにお腹を見つめるのです。




ーーーーーーーーーーーーーーーーー


↑これを書いたのは先月の半ば。
その数日後には生理がきて、
それも当たり前の出来事で、
落胆することもなく、フと笑って違和感なく受け入れた。

そしてやっぱりあの感情たちはホルモンバランスのせいだったことがわかり、
自分で理解していたとおり、またいつもの「2人ばんざーい!」という楽観的な日常がやってきた。

なんの陰りもない、子どもを望みもしない、大好きな日常。


だけど、あえてこの言葉たちを残したかったのは、
ホルモンバランスだろうがなんだろうが
本当に数年ぶりの感情だったから。

そしてきっとこれからも数年に1度くらいは
この気持ちになるのかと思ったから。

この波は決してネガティブなものではないと思っていて、
頭でわかっていても心が揺らぐことは
それもまた人生の一部であると感じる。

自分だけは無理に蓋をせずに受け入れてあげたいと思ったから。



2023.1.8

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?