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東京藝大に受からなかった私について。

まずはじめに、今回のメインの筆者は僕ではありません。

先日、予備校で共に藝大を目指していたときの友人から「受験体験記を書いたから読んでほしい」というメッセージが届きました。

その内容があまりに鮮烈で、鋭くて、素晴らしかったので、ぜひ公開しなよと伝えたところ、僕のnoteのページで公開していただけないかと提案を受けました。二つ返事で了承しました。

その彼女は、以前書いた僕の記録にも少しだけ登場しています。僕は彼女に誰より憧れており、誰より敵視していました。


合格者がいれば必ず不合格者がいます。いつも語られるのは成功についての物語です。だけどドラマは誰にも等しく存在します。

今回の記事は、僕の記録のアナザーストーリーみたいなものかもしれません。ぜひ最後まで。






はじめに

2021年 とある美大生の記録


 今はまだ、あまり思い出したくない記憶ですが、美大受験をして、大学生になって、20歳になって。

 今までのことと自分の気持ちを整理したくて、ここに記録します。




幼少期〜小学校

 私は、小さい頃から絵を描くことが好きでした。

 自分の世界があって、その中で過ごしていた気がします。人と話すことが苦手で、友達も少なかったです。



 幼稚園も小学校も自宅から近くて、近所の友達すらいませんでした。帰宅後は、習い事(書道·バレエ·新体操·泳げないのにスイミングスクール)に行ったり、妹と遊んだり、1人で絵を描いたりしていました。


 そんな調子で小学校の休み時間もほとんど1人で過ごしていました。私はいじめだとか思ってませんけど、そのような雰囲気はいろいろとありました。だから、むしろ、いかに1人でいられるか考えていた気がします。図書館にこもって本を読んだり、静まりかえった教室で絵を描いたり、誰かが来たら場所を変えたりしてました。


 母が服飾系専門学校卒、父は調理師、祖母は彫刻作家。だから私が、家庭科や図工、裁縫や料理、絵を描いたり、創作活動が好きなのも当たり前。家の中でも、そんなふうに言われ、ちょっと傷ついたのを覚えています。いつも言われていたのは「いいんじゃない」という一言。この言葉がなんだか無関心に似たニュアンスに感じて、幼心に褒められたくて、創作し続けていました。


 小学3年生の時、1番の話し相手だった大好きな祖父が亡くなりました。親族は、財産相続問題の話で持ちきり。夜な夜な大人の嫌な話ばかり聞こえてきて、布団に包まって耳を塞ぎながらうんざりしました。


 このあたりから、さらに萎縮する癖がついてしまったり、家族·先生·友達などに自分の本心を言えなくなったりしたと思います。




中学受験

 当時、家族には心配をかけたくなくて、自分からは友達がほとんどいないという状況を話していませんでした。

 同級生と同じ中学校には行きたくないなと考えていたとき、通い始めた学習塾のコースに中学受験コースを見つけました。勇気を振り絞って受験したいと言ったら、あっさり承諾してもらえました。


 後から聞いた話ですが、私の状況、家族は薄々気づいていたみたいです。

(今思えばそれもそのはず。この頃までほとんどひとりか姉妹で遊んでいて、唯一の楽しみは家族旅行でしたから。)



 この時、美術科がある中高に行きたいと思っていました。でも、家族に「美術の道に絞るのはまだ早い。もっと選択肢があるところにいく方が良い」と言われていて、(同級生と同じ中学に行きたくないという)わがままを聞いてもらえる環境にいることに感謝しようとも思い、私は自分の気持ちに蓋をして、親の決めた学校を受験しました。


 受験した3校のうち唯一の進学校。ここは、私が努力しても行けるような偏差値でもなかったし、行きたいとも思わなかった学校でした。両親は「挫折を味わったほうがいい」と言って、受験校にいれました。親は丁寧に挫折まで用意してくれていたんです。ほんとに随分と贅沢な話ですよね。



 結果、進学校には落ち、他の2校は受かりました。挫折なんて微塵も感じませんでした。そこまで努力しなかったので。

 でも、このままじゃいけないなと感じました。少しでも自分の知らない遠くに行きたくて、東京の中高一貫の女子校に進学しました。



(この時はあんな挫折を味わうことになるなんて思いもしなかったですね。これはフラグだったんでしょうか。なんだか悲しくなってきちゃいます。)





中学·高校

 中学に進学しても、友達とはなかなか馴染めませんでした。都内の伝統女子校で、周りはお家がしっかりしていてかなりのお金持ち、何か住んでいる世界が違うように感じました。



 それでも、楽しかった·良かったなと思うこともあります。書道·茶道が必修カリキュラムにあったり、花道も課外活動でできたり、文化的な学習が多くありました。


 なにより、良かったなと思うこと。それは美大受験をするきっかけが、この学校にあるからです。


 入学したときに話は戻ります。

 中学での部活は卓球部、美術は授業の中だけでした。この時の私は、美術の授業は楽しかったけれど、夢とか憧れとかでは全くなくて、むしろ美術への道を完全に諦めていました。正確には、日々の生活に何も感じていなかったんです。女子校特有のつまらないスクールカーストに嫌気がさして、なるべく関わらないように教室の隅にいました。

 高校にスライド入学してからも、年々拗れていく人間関係に疲れてしまっていました。部活もストレスに耐えきれなくて辞めてしまい、本当に何も無くなってしまいました。



 そんな高校1年の夏、夏休みの美術の課題で『全国読書感想画コンクール』に応募しました。「読書感想画」とは、読書感想文のように、本の内容·感想、感じたこと、考えたことを絵で表現するというものです。

 私は、亡き祖父に重ねて読んでいた『夏の庭』という本で描きました。これが全国コンコールで奨励賞になりました。優秀賞は取れなかったし、誇れることではないのかもしれません。それでも東京での審査で1番になれたことは、自分の作品に自信を持てるきっかけになり、私にとっては本当に嬉しいことでした。とにかく、作品を描いている時間が楽しくて、この時間が好きだったことを思い出せました。



今も時々読みかえす『夏の庭』


 このことをきっかけに美術の先生が話し掛けてくださるようになりました。美術部に入っていないのに、学園祭の装飾や学校の生徒会誌の表紙制作などに参加しました。

 仲良くなった美術の先生に「やっぱり美術の道に進んだほうが良い」と背中を押してもらいました。先生の勧めで、通学の乗り換えで使っていた池袋駅にある美術予備校に通い始めることになります。高2の夏のことです。



 家族は反対しました。「コンクールでたった1回賞をもらっただけで、先生に煽てられているだけ」、「今まで何もしてこなかったのに、その間に努力している人に勝てる訳がない」等々。ごもっともです。それほど家族は私を心配してくれていたのだと本当に申し訳なく思います。

 当時は、正直、家族の反対にすごく悩みました。今振り返っても、私の大学受験の1番の悩みは、家族の反対だったと思います。


 あの頃は特に精神的に沈んでいたので、とてもじゃないけど、心配していてくれているなんていうように捉えられなかったです。他にも、本当に自分にできるのだろうか、なんで今まで何もしなかったんだろう。そんな不確定な未来への不安や今までの後悔など、いろんな感情に葛藤し押しつぶされそうになりました。

 また、親は結構ズバズバと物を言う性格で(今はそんな性格も大好きですが、当時)メンタル弱くて自己肯定感無かった私はそれに圧倒されちゃって、自分のことを口にすることができなくて悩みました。



 けれど、もうこのチャンスを逃したら、とにかく絶対に後悔するとも考えていました。ここは自分の人生の中で譲れないなと。絵を描くことが好きだなと。


 大事なことなのでもう一度書きますね。

 やっぱり私は絵を描くことが、自分の手から何かを生み出すということが大好きなんです。




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美術予備校

 私は高2の夏から、2年弱の間、美術予備校に通うことになります。

 志望校を決めて、予備校に入ったわけではありませんでした。自分の力でどこまでできるか知りたかったんです。それで自分の強みで戦いたいたいなと思いました。


 初めての学科選びは「自分が得意なこと」と「今後やりたいこと」という消去法でした。石膏デッサンは本当に苦手だったので、静物·構成デッサンで受験できて、(絵やタイポグラフィなどの)平面作品も立体作品も制作できる学科。デザイン科に絞りました。この時点で私大か国立かは決めていませんでしたが、やっぱり東京藝術大学は憧れでした。

 ちなみに高校の美術の先生は、デザイン科と日本画科を勧めてくれていました。日本画科も素敵だなと思ったけど、石膏がほんとに似なくて泣きました。


 ここでようやく自分の画力の弱さに気づき始めます。予備校に通い始めたことで現実がそう甘くないことを知りました。先生、浪人生、同い年の現役生、参考作品たち、私より上手い人が沢山、沢山、沢山、沢山、沢山いて、素敵な作品に出会うたびにショックを受けました。やっと持てた少しの自信も、一瞬で無くなりました。



はじめての石膏デッサン
はじめての構成デッサン
はじめての平面構成
この頃からお花を描くのが好きなのは変わらない
はじめての立体構成




 高2の夏から始めて高3の秋ぐらいまでは、知らないことだらけで、デザインというものがどんなものか本当にわからなかったです。制作で上手な人の参考作品を真似しては失敗してばかりいました。どうしていいかわからなくて自分でも納得してない作品を、講評で評価順に並べられ見られることが本当に嫌でした。現役生しかいないクラスで毎日下段·中段。

 たまにまぐれで上段をとっても、何が評価に結びついているのか理解できず、すぐに評価は下がってしまう。現役生の間は評価基準にずっと悩みました。


2019/6/8
(緩い上下分けで中段~上段の間ぐらい)
紙立体 テーマ「重ねる」
2019/7/31
(上段)
テーマ「動物」重ねるのに凝ってた時期 
作業量やばい
2019/8/20
(上段)構成デッサン
いろんな図形の空間を作るのが好き
2019/9/21
(緩い上下分けで上段)秋を感じる平面構成
家族が気に入ってLINEグループのアイコンに...。
2019/10/9
たぶん内部コンクールの作品(この平面は2位くらいだったはず)



 高3の冬季講習から浪人生のいる昼間部と本格的に合同授業になりました。ここでちょっとだけ感覚を掴めた気がします。作品を見ても、ちょっと自分の作品が好きだと思えてきました。


 予備校以外の時間では学科の勉強と手のクロッキーをしてました。

2019/12/26
(上段)紙立体「A+B=C」
Aの白い立体がBの赤い塗料をスプレーでかけられてCの赤い立体になる過程。
コロコロとしていてかわいい。
最後もかわいい


2019/12/30
(上段)色が薄いのは課題だった


2020/2/5
(上段)紙立体 テーマ「花」
トレペでカーネーション(一部)を作った
360°どこからも本当に綺麗だった






 この頃から、藝大に本気で行きたいと考えるようになりました。


 家族は終始、美大受験自体に反対していました。予備校での作品は全て家族に見せていたので、まだまだ努力が足りないと言われましたが、私は藝大受験にかなりのめり込んでいて、浪人も内心ちょっとだけ考えていました。なので、浪人覚悟で武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科と東京藝術大学デザイン科だけ受験しました。


 藝大対策をできるだけ長くしたくて、私大対策は入試直前の講習会のみ参加しました。私大対策をして、3時間の短い試験時間の使い方、考え方や技術的なこともたくさん学べたと思います。


2020/2/7
(上段、全体講評、撮影)テーマ「気になる」


2020/2/2


2020/2/29


2020/3/7
現役 受験前 最後の作品







現役の受験結果


 現役の受験結果は、武蔵美視デは不合格、藝大1次合格、2次不合格でした。

 視デに落ちてから、まさか藝大の1次に受かるとは思っていなくて、驚きました。2次は、いまだにあの試験会場の雰囲気が忘れられません。


 1次に合格したことで、家族に少し努力を認めてもらうことができました。



 そして、1年だけ浪人させてもらうことが出来ました。



 2浪以降は絶対にないという約束でした。感謝の気待ちでいっぱいで、絶対に合格したくて、やれることは全てやろうと思いました。




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美術予備校(1浪)


 はあ、ついに来ちゃいましたね。





 結果から書きますと、私は藝大1次不合格でした。



 合格発表は、予備校の玄関で見ました。お恥ずかしいことに合格しているはずだと思っていた私は発表時刻には予備校に来ていました。見た瞬間にフリーズして、何回も何回も受験番号が無いことを確認して、泣きながら不合格者の集まる校舎に歩いていったことを鮮明に覚えています。


 現役では受かっていた1次。現役のときより、努力したし、明らかに上手くなっていたし、受かると信じていました。でも、ダメだった。届かなかった。何がダメだったんでしょうか。あの日までの毎日、やれることは全部やったと思ったのに。

 それは思っただけだったのかもしれないし、私がまだ気づいていない「何か」が足りなかったのかもしれません。格好良く言おうとしてますけど、不合格には変わりありませんし、こういうことを言えば言うほど格好悪いですね。



 ですから、今までの内容、特にここからの内容は、もしかしたら藝大に合格するという面では、あまり良く無いことだったのかもしれません。



 でも、私は、この1年で確実に成長できました。


 そこは揺るがないと思っているので、ここに記録したいと思います。
頑張ったことをまとめると、主に2つです。




 まず1つ目は、予備校には休まず通ったこと。現役からほぼ休んだことはありませんが、浪人時には徹底していました。実技制作·学科の学習時間·バイト·休息のオンとオフの切り替えは大事にしつつ、講評がどんなに辛くても絶対に逃げないと決めていました。(今思えば、少しぐらい休めば良かったかなとも思います。煮詰まることも多々あったので、休息は大事だと気づきました。)


 とは言っても、好きなアイドルは(大学生の今よりも)しっかり追いかけていて、自分では休んでいるつもりでした。「予備校のコンクールで1位を取ったら新しいCD1枚プラスして買う」みたいなご褒美ルールを自分で作ってました。



 そして2つ目。それは、自分のことについての研究です。自分の得意·不得意、出来る·出来ないこと、何に興味を持ちやすくて、どんなものが好きなのか。その他、制作で大切なこと·気をつけること、毎日どう過ごすべきか等々。出来るだけ細かく、自分のことを見つめ直しました。

自分がどんな性格なのか把握しようとした。
赤文字はそれに対する対策。


1日の流れ
無駄のない制作にしようと思っていた。


①デッサンの自己分析グラフ
縦軸は好き(得意)か嫌い(不得意)か。横軸は評価の具合。
左下は受験期秋ぐらいまでに指摘されないレベルまでにする。
右上は試験で必ず出してくる自分の強みになること。
赤囲みは制作中に大事にすること。黄囲みは苦手なことの対処法。
①裏面
デッサンで特に意識すること


②平面構成


②裏面
平面構成はマチエルをよくやっていたのでその注意事項がまとめてある


③立体構成




 そして、それらを全て紙に書き出して、先生方に渡しました。これは研究していく中で、自分の行動パターンや性格、陥りやすい心理状況とそれの対処法が、完全とは言えませんが、なんとなくわかってきたからです。私の性格だったら、先生になかなか話かけたり、自分のことを話したりすることは難しいけど、言葉に書き出す作業なら出来て、あとは渡せちゃえば良いだけでした。


 これらは何回か更新して、最新の自分の状況を把握しようとしていました。

 本当にやって良かったです。先生に指導をもらいやすくなって、何より自分で自分の課題と向き合いやすくなりました。



 自分のことを研究してから、自分に合った作品を(課題と合致させながら)作ることを意識していました。デッサンも平面も立体も、それぞれの得意なことと出来ること、「好き」なことが表現できるようにと頑張っていました。

 やって良かったんですけど、自分のマイナスなところも、たくさん見つめ直さなくちゃいけなくて、正直、本当に辛かったです。



 1浪の時はこの2つを徹底的にやって、毎日の課題やコンコールも全体講評と1位を絶対取るという意識でいて、今考えるとすごくストイックなことをしてました。評価がちょっとでも悪いとすぐに落ち込んだり、家族に「今日はダメだったんだね」みたいに言われたり。いつも良い評価を取っていなくちゃいけないと、評価がプレッシャーになっていました。


 今はそんなに評価に固執しなくても良いんじゃないかと思います。

 たとえ日々の評価やコンクールでずっと良かったとしても、受験日当日の作品で全てが決まるので。でもその時に少しでも後悔しないために...評価を気にせずにいろいろ試行錯誤してみて、その作品が先生にはどう見えているのか、全体ではどの位置なのかを知る。さらに自己分析して成長できるポイントを見つけ改善する。このサイクルのために講評を活用できたらいいなと思います。難しいですけどね。




以下、一部の作品たちです。


デッサン


平面構成


立体構成




最終結果


 私の最終的な受験結果です。私大は武蔵美の基礎デザイン学科と視覚伝達デザイン学科を受験し、どちらも合格しました。その後の藝大1次は不合格。進学は視覚伝達デザイン学科です。


基礎デ 平面構成 満点


視デ デッサン 入試パンフ掲載



 私大対策は入試直前の1週間をとりました。ここでは、基礎デ対策はしないで視デ対策のみ集中して行いました。藝大コースで培った根本的なことは私大でも通用しますが、短時間で制作しなくてはいけなくて大変でした。私大コースでとても上手かった子の作品を間近で見て、短時間で仕上げていく私大の受験制作は本当にすごいと感じました。

 その子は後に同じ学科に進学。一方的に見ていただけだったので、彼女が私のことを知っていて作品を褒めてくれてかなり驚いたし、とっても嬉しかったです。



最後に


 随分と長くなってしまいましたが、最後に、予備校での友達事情について書こうと思います。

 ここまでの記録の通り、予備校に入ってからは自分のことにいっぱいいっぱいで、友人関係で悩むことは少なかったです。



 ですが、予備校にいる人·同じ受験生に対してはすごく意識してました。




 ある「憧れ」の人のことも書こうと思います。



 その人は、私より年上で、予備校で私と同じ構成デッサンを選択していました。私は勝手にライバルだと思ってました。

 毎日の課題もコンクールも、そして本番も、負けたくなくって、追い越したくて、必死でした。


 1次当日、同じ受験会場だった彼がエナジードリンクを溢すところを見て、「あ~いつも通りの感じだな」と安心したのを覚えています。(ごめんね。)


 試験中、席を離れた時にふと目が合いました。なんだかすごく言葉では上手く言い表せない雰囲気で、そんな競い合っている感じを勝手に感じて、最後まで頑張ろうと思えました。






私は不合格。


彼は藝大に合格、進学しました。





 受験後、話す機会があって、憧れられていたことを知りました。すごく不思議でした。私も羨ましくて、憧れていたのに。


 さらに不思議なことは、受験が終わったら仲良くなっていることです。これは、同じ大学の友達にも予備校で出会った友達にも言えることなんですが、友達以上で仲間でライバルだなとつくづく思います。過去も今も、そして、この先の未来もそんな関係でいられたらいいなと切実に願います。




 私は藝大には行けませんでした。そして、この1年間かなり精神的に追い込みすぎて、彼や他の受験生のように働きながら受かるまで頑張ろうという気にもなれませんでした。(こういうところなのかもしれませんね。)


 今でも上野駅に行くと、ときどきあの日を思い出して辛くなります。同時に、藝大に未練があることを自覚して、泣きたくなります。私も藝大に行きたかった。あの壁を乗り越えてみたかった。乗り越えるとどんな景色が見れるのかな。一緒にもっと制作したかったな。藝大で突き詰めてみたかったな。って。

 中学受験でのフラグを回収して、挫折を味わっている気がしますね。



 でも、これは努力したからこその感情なのかもしれません。



 あのころは本当に苦しくて、辛くて、悔しくて、泣いてしまうことも沢山あったけど、努力することだって同じくらい嬉しくて、楽しくて。それは今もあんまり変わっていなくて。



 だからこそ、ここで終わってしまったわけではないとも思うんです。受からなかった奴が何を言っているんだと、そんなこと綺麗事だと、負け惜しみに聞こえるかもしれないけれど。



 でも、私の人生は私のものだから。私は何かに一生懸命になっていたいし、やり残したと後悔したくないし、自分がいいなと思うことを好きなものを表現したいです。自分のペースになるかもしれないけれど、「憧れ」をここからまた追い続けようと思います。そして、これからも素敵な人たちと頑張り合えたらいいなと思います。


 きっと1人では沢山の大切なことに気づくことはできませんでした。




 そして、また走り出そうと思えたのも、これを読んでいるあなたがいたからです。


 感謝の気持ちでいっぱいです。

 本当にありがとうございました。




おまけのあとがき



2022年 とある美大生の記録


 ここまで私の不器用な文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 前々から記録するということが好きで、この体験記も実はかなり前から書いていた文章なのですが、1年弱ほど時間を置いて公開する運びとなり、今の私の記録も少し書いておこうかと思います。


 今も記録好きな私は、自分のことや発見したこと、たわいのない日常のちょっとした幸せなどをあれやこれやとかき留めながら、進学した大学での課題や芸術祭参加、自主制作に展示企画、バイトなどなど、非常に楽しい日々を過ごしています。


 2年目の大学生活もたくさんの素敵な友達や先生方、そして学びに恵まれ、私の「憧れ」は増え続ける一方です。




 さて、「憧れ」って何でしょう。あなたにも「憧れ」、ありますか。




 「憧れ」を目指し懸命に走る姿は、いつでも力強くてとっても格好いい。

 掲載者の流太くんのnoteにちょっぴり登場する私にも記録があるように、出会う人の数だけ記録がある。

「憧れ」が同じだったとき、それぞれの記録が交わり合えたとき、私はこころが繋がった気がして温かい気持ちになる。


 そんなことを考える今日この頃...何はともあれ、noteの編集·掲載を快く引き受けてくださった流太くんに、この場を借りてお礼申し上げます。





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ここからは僕のあとがきです。

合格者がいれば必ず不合格者がいます。しかしそれは当人の努力量のみに依拠しているわけではありません。勝負事は得てして、そう都合良くはいきません。努力が報われるとは限らない。まして美術なんて。でも。



試験中に振り返って彼女の方を見たのは、どんなふうに描いているのか知りたかったからです。僕が苦手なガラスの質感を、どうやって表現しているのか参考にしたかったからです。そして目が合った瞬間を、僕もきっと一生忘れないでしょう。



予備校で一緒だったあいだ、彼女が絵に宿す光の鮮やかさを、再現しようと真似し続けました。入試の前日まで、彼女の絵から何かを盗もうと観察しました。彼女がいてくれたおかげで僕は上手くなれたと思います。しかし僕は最後まで彼女に追いつくことができませんでした。

僕は彼女にはなれなかったけれど、僕は僕になりました。おなじように、あなたは誰にもなれなかったけれど、あなたはあなたになったのでしょう。

そうやって残ったなけなしの、かけがえのない自分を抱えて挑むのが受験であり、また人生なのだろうと思います。そういう人たちが行き交う美術という名の交差点が、僕は大嫌いで、愛しています。



僕からも重ねて感謝いたします。最後まで読んでいただきありがとうございました。






今回の筆者のTwitterアカウントです。


現在公開している、僕の受験についての記録です。

https://note.com/____lonesome/n/n36f41c2b418d  

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