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そうして僕は大学を辞め、東京藝術大学を目指した。

僕の人生の話をします。

今年の春で受験が一区切りついたので、そこに至るまでの経緯や諸々を、こうして文章にまとめることにしました。

そう思ってから半年ほど経ちました。書いてる途中で当時のことを思い出して苦しくなって、書けなくなって、を繰り返していました。



三月に美術予備校からサイトに載せるための受験体験記の執筆を依頼され、頑張って書いたわけですが、「暗すぎて載せられない」という理由でボツにされました。マジでそういうとこだぞ、本当に。


ありのまま書いただけなんだけどな。ありのまま書くとそんな風に言われちゃうのか。



でもそれがリアルだから仕方がない。この文章も、藝大受験というリアルをありのまま描いています。どうぞお付き合いください。



1999-2012

ざっくりと幼少期について触れときます。

生まれは東京らしいですが、その後すぐに引っ越し、それから18年間島根県で育ちます。鳥取の隣の島根です。どっちが左でどっちが右かは僕も分かりません。いっそ合併すればいいのに。


そういう概念を理解する前のことだったので、両親が離婚していたのがいつ頃だったのかあまり定かではないです。母のもとで僕はすくすく育ちました。

この辺りは残っている中での最古の落描きです。たしか物心ついた頃から絵を描くのが好きな子どもでした。遊ぶ友達が少なかったからかもしれません。その性質はどちらも今も変わりませんね。




それからの僕は、どこにでもいる、クラスでちょっと絵が上手い小学生だったと思います。授業中にノートに落描きしては怒られたり、好きな漫画の絵を描いて友達に見せびらかしたりしてました。




2012-2015

中学生の頃描いた絵は見つかりませんでした。スマホを持ってなかったので画像に残ってないというのもありますし、そもそもそんなに描いてないのかもしれません。

代わりに中学校近くの風景でも載せときます。


空と田んぼが広くて綺麗ですね。少し車か電車に乗れば街もあるのでそこまで生活に不便もありません。穏やかで良いところです。ぶっちゃけ嫌いでした。広すぎるんだ、空が。


友達はそれなりに居たと思っていたのですが、実は裏で少しいじめられてたらしいことを5年後くらいに聞きました。一生黙っとけそういうことは。



はぁ…。


そういえばこの頃好きだった女の子が今度結婚するらしいです。お腹には新たな命がいるそうです。



2015-2018

いわゆる自称進学校と呼ばれる高校に通っていました。東大や医学部に行く人も居れば、行ける大学がないような人もいました。

部活はテニス部に入ってました。二年の夏で辞めました。生徒会長とかもやってました。先生に嫌われすぎて失脚しました。ちなみに芸術選択で音楽を取っていたので、高校で美術の授業を受けたことはないです。


帰宅部になって暇になったので家に帰って絵を描いたりもしてました。
そういえば美術部の体験に行ったこともありました。筋がいいと褒められ、明日も来てねと言われたので、「はい!」と元気に答えました。それ以後一度も行ってません。なぜだろう。




高三になると受験勉強が嫌すぎて病みました。行きたい学校などなかったので、まるでモチベーションがありませんでした。

このころは美大受験なんて選択肢は毛ほども頭にありません。だって美大なんか行って、その先の人生どうすんだよ?




周りが勉強していたので、それに合わせて僕も少しずつ勉強しました。それでも世の本気で勉強している受験生からすれば、話にならない勉強量だったでしょう。

みんなが勉強してる放課後、屋上でぼうっとしながらBUMPを聴いてました。そんな中途半端な自分が嫌いでした。




どうにかして進路を決めなければなりません。やりたいことなんてまるで思い浮かばなかったので、行きたい大学も学部もありませんでした。


思えば学校というのは、勉強のやり方や、目指した大学に行くための方法は教えてくれるけれど、それ以前の、どうやって自分の進みたい道を見つけるのか、なんのために勉強をするのか、そういったことについてはあまり教えてくれなかったように思います。


本当はそれが知りたいのに。それが分からないから悩むのに。



好きな小説がありました。「ライ麦畑でつかまえて」という半世紀以上前の作品です。

社会と大人に不信感を持ち、子どもや、純粋なものだけを愛そうとするホールデンの姿が自分と重なり、強く影響を受けました。


僕もそういう風に、迷う子どもを助けられるような存在になれればいいなと思い、教育学部を志望しました。それが間違いでした。




2018年 春

センター試験は目標としていた点数には届かなかったので、ランクを下げて静岡大学の教育学部に入学しました。


実家を出て大学寮に入ったのですが、初日に先輩たちから悪質なドッキリを受け、ブチ切れて大号泣したのち心が折れ、その十日後に退寮しました。今でも忘れてねえからなクソが。

その三日後くらい、新入生歓迎会で先輩に「一年の中で誰が一番可愛いと思う?」と聞かれて「あ、もう無理だ」ってなりました。心が折れました。入学したての一年生にそんなことを聞ける神経が分からねえ。


ちなみにこれまでもこれからも、軟弱メンタルの僕の心はプリッツと同じくらい簡単に折れるので、現在僕の心は目算で256分裂くらいしてます。

ところでなんで心って、壊れるとか砕けるとかじゃなく、折れるって表現が主流なんだろうな。人の心はデフォルトで棒状なんだろうか。


思いつきで髪を赤くしました。深夜のドンキで買ったマニックパニックです。シンプルに頭が悪い。


大学生活は苦しかったです。「何かしなきゃ」って焦りだけはあるのに、授業も課題も全くやる気が起きず、このままこの大学に4年間も居たら、人生はどうなっちゃうんだろうなと不安でいっぱいでした。

このまま適当に単位を取って、適当に遊んで、進級して、就活とか教育実習とかして、そしてその先は……? その先数十年、この退屈な生活の延長が続くのか……? 僕の人生はそれでいいのか……?



迷う子どもを助けられるようになりたい。そこに嘘はなかったです。でもそもそもそれ以前に、人生に迷っているのは僕自身です。そんな人間に、誰かを助けられるわけがない。


誰かの人生の前に、自分の人生をどうにかしないといけなかったのです。ホールデンもそうだったように。




でも、今からできることって何があるのか……?






そういえば、僕は絵を描くのが好きだったなあ、と思い出しました。というか、他に好きなことなんてあんまり無いな。

やりたいことなんて無いと思い込んでいたのに、本当はずっとずっと、目の前にあったのです。気づいていたはずなのに。



高校のころ美大進学が頭になかったのは、地方の自称進学校には美大を目指す人はほぼ居らず、目指すための環境もなく、現実的な選択肢として考えられなかったからというのと、何より、自信がなかったからです。

美術の道に行けるほど自分に能力があるとは到底思えなかったし、そこまでしたいほど自分が絵を好きなのかも分かりませんでした。



でも違ぇんだな。動くのに自信とか要らねえんだわ。だってそうじゃないと、一生なんにもできないんだもん。





もう自分に嘘をつきたくなかった。もう後悔したくなかった。



美大を目指そうと決めました。これ以上自分の時間を浪費したくなかったので、静岡大学は休学することにしました。決断したのは入学してから2ヶ月が経った頃です。


母親に泣きながら電話して頭を下げると、「そうなる気がしてたよ」と言われました。見透かされていたのです。


前期が終わる8月から休学することになりました。ちなみに国公立大学は休学費は無料です。さぁ君も今すぐ休学しよう!



新たに受験を始めるとなると、当然志望校を設定しないといけません。うちはお金がないので、年間200万とかかかる私大の美大は選択肢に入りません。というか高すぎんだよ舐めてんのか。


そうなると国公立の美大しかないわけですが、候補はどこだろうなと調べます。金沢美術工芸大学、愛知県立芸術大学、筑波大学 芸術専門学群……。



そうして調べていると、嫌でも、ある名前が目に入ります。





「東京藝術大学」





いや。いやいや。




東京藝大ってあれだよな? 倍率が十数倍とかの、才能ある人が何浪もしてようやく入るようなところだよな?


まして自分は、中学校以来、美術なんてまともにやったことのない人間なのに?


無理だろ? そりゃ、行けるもんなら行きたいけど、それはいくらなんでも無理だろ?



なのにどうしてか、もう頭から離れませんでした。気づいた時には目指したくて仕方ありませんでした。


どうせ美術を目指すのだから、せっかくやり直すのだから、一番強いところを目指してみたかったのです。もう嘘をつきたくなかったから。



そうして僕は藝大を目指すことになりました。プロローグ終わり。ここから地獄が始まるよ!!!




2018年 夏

静岡から東京にやってきました。



藝大受験というのは学科の受験より遥かに東京一極集中の現状があり、東京の美大予備校にある程度通わないと、合格するのはほとんど不可能に近いというのが実状です。


しかも、僕の目指した藝大デザイン科の定員は45人なのですが、そのうち30人くらいが都内の実績1位の予備校の校舎から受かる、といった普通の受験じゃありえない偏り方をしています。


駿台とか河合塾みたいに全国にたくさん校舎があるとかじゃなくて、たった一つの校舎ですよ。こんなの地方の人に不利すぎるんだよな。the地方格差。


ちなみに藝大デザイン科の倍率はだいたい15倍です。高すぎるから早急に定員を増やせ。



僕が入ったのはその、全国実績1位の予備校の昼間部、つまり浪人生たちが集まるコースで、要は全国で一番レベルの高い環境です。かたや僕はド初心者…。





予備校に来た初日、この日の衝撃を僕は一生忘れないでしょう。


ここから先のことはあんまり思い出したくないんですよね…。思い出すと苦しくなるので…。というのも。





周りが、上手すぎるんだよ。





いや、ちょっともっかい言っとくわ。伝わってないかもしんないから念のため。






周りがみんな上手すぎるんだよ!!!!






なにこれ????????



本当に絵なの? 写真では? なんでこんな短時間でそんな上手く描けるの? 本当におんなじ人間なの??



ええと、分かります?? 先述したように、僕は一応、これまで学校のクラスの中では絵が上手い人間だったわけですよ。つまり、絵を描くことにはちょっと自信があって、それなりに人より優れていると思っていたのです。




それなのに。



地元でちょっと得意げになってた井の中の蛙のちっぽけな自信とかプライドとか自尊心とかは、全部ぶっ壊されました。心が折れた、どころじゃない。粉々になりました。



そりゃ別に、来ていきなり上位に入れるとかそんなことは思ってなかったですけれど、でも、でも、これは、あまりに。



こんなの、敵うわけがないだろう????





こんなに上手くなれるわけがないだろう???




一生無理だよこんなの。勝てるわけないよ。




僕が予備校に来て最初に描いたデッサンです。

どうなんでしょう、美術と関わりのない人から見たら案外上手く見えたりするのでしょうか。


浪人生の絵はこれより何倍も、遥かにずっと上手いのです。この絵はその足元にも、靴底にすら及ばない。可能ならその絵をここで見せたい。あの時の衝撃を少しでも伝えたい…。


これは予備校で初めて描いた色彩構成と、


初めて作った立体構成です。

とうもろこしから生えてる触手はヒゲのつもりでした。キモい。



2018年 秋


藝大デザイン科の試験は、一次試験にデッサン、それを通過すると二次試験に色彩構成と立体構成、そこに共通テストの点数を加えて、それらの合計点数で合否が決まります。

ちなみに試験時間はデッサンが7時間、色彩と立体は6時間です。長いですね。でも実際やってみると全然時間が足りないのです。





ここから先は、ひたすらずっと実技試験の練習をしてるだけです。ひたすらずっと。



人生で一番辛い期間がいつだったかと聞かれたら、この辺りの時期です。書きながら辛くなってきた。


予備校では一日か二日かけてひとつの作品を完成させ、それを毎回棚に並べ、先生によって評価順に上段・中段・下段とざっくり分けられる仕組みになっています。


僕の作品といえば、それはもう、ほとんど下段でした。


毎日毎日一生懸命、下手くそでも下手くそなりに、自分の出せる限りの力を尽くして作品をつくるのです。



それが、毎回、下段。


こんなに頑張ってるのに下段。




予備校では講師の先生が毎回、生徒の作品を評価順に講評します。僕はいつも最後の方。

周りと比べて見るからにダメな自分の作品が、見とれてしまうような美しい作品と同じ壁に並べられて、それをみんなの前で講評されるのがどうしようもなく惨めで、恥ずかしくて、辛かったです。



絵を描く楽しさ、作品をつくる喜び、みたいなのはもうまるで無かったです。だってどれだけ描いても全然誰にも敵わないし、むしろ描けば描くほど自分の非力さを思い知らされるだけなのですから。



あれ、俺って何しに東京に来たんだっけ? こんなに辛い思いをするために、大学ほったらかしてわざわざ来たんだっけ?



2018冬

今一度注意しておきますが、僕は自分でも引くくらいの豆腐メンタルなので、何かにつけていつも呆れるほど泣いてます。この先もたくさん泣いてる場面が出てくるのですが、温かい目で見て欲しいです。




予備校からの帰りの電車で、窓の向こうで過ぎてく家々の光を泣きながら眺めていました。お母さんの料理を食べたいなあ。


家に帰って夜になって、自分の不甲斐なさやみっともなさに堪えきれなくなってまた泣きました。そういう時に思い出すのは、決まって楽しい記憶たちです。思い出の中で笑ってる自分と、部屋で泣いている現在の自分のギャップに心がねじ切れそうでした。



朝電車に乗って、予備校の最寄り駅が近づくと、恐怖で手と足と頭が震えました。制作中、嫌になってトイレにこもってたこともありました。アトリエの空気はひたすらに重く、息苦しかったです。



思い出すと吐きそうだからこれ以上は勘弁してくれ。




予備校に友達は居ませんでした。

周りの上手い人たちに話しかける勇気なんてなかったし、僕みたいな下手くそに話しかける人なんてほとんど居なかったので、自然とひとりぼっちでした。

「友達を作りにここに来たわけじゃない」
「誰かと馴れ合いたいわけじゃない、俺は一人でいい」

そう自分に何度も言い聞かせながら、楽しそうな人達を横目に見ていました。




そういえば美大受験を始めて間もない頃、僕と同時期に始めたらしい人が話しかけてくれたこともありました。数ヶ月後、その人は予備校に来なくなりました。

そういう人は後にも先にも沢山いました。病んで、予備校に来なくなった人たち。

気持ちは痛いほど分かります。僕も、もう行きたくない、辞めたいと思う日は数え切れないほどありました。


それでも僕が予備校に行っていたのはなぜだったのでしょう。よく分かりませんが、夢とか勇気とか、そういう前向きな原因ではなくて、ここで辞めてしまったら家族や友人に向ける顔がないという、ただそれだけだったように思います。逃げ場がなかっただけ。


2019年 1月〜3月





予備校には行き続けました。そんな生活が半年ほど経ちました。それでも僕は下手くそのままでした。






一度目の藝大受験がやって来ます。




結果は不合格でした。一次試験落ちです。




2019年 春~初夏

さすがに半年で受かるとは思っていなかったので、元々家族とは一年半の約束でした。つまり次の受験で、藝大であれ別の大学であれ、どこかに進学して受験を終わらせてくれと。それ以上受験を続ける経済的余裕はうちにはなかったのです。


なんかちょっと上手くなってきた気がする。

受験が一度終わり、次の試験まで時間が出来たことで、余計な力みや緊張が少し解けたのかもしれません。




上段の作品の中でも、特に良い作品は生徒みんなの前で全体講評をされることになっていて、そういう作品は生徒の間では”全体”と呼ばれていました。

この頃から、まれにですが自分の色彩構成や立体構成が全体に選ばれるようになりました。

ただ、自分が成長してるのもありますが、昨年まで上手かった浪人生の多くが、藝大や他の大学に進学して居なくなったのが大きいです。単なる繰り上がりですね。




これは浪人生あるあるなんじゃないかなと思うのですが、自分の居場所や価値がどこにも感じられないことが辛かったです。

同級生はもうとっくに普通に大学に通っていて、家族や友達にもどこか後ろめたくて、粘っこい劣等感がいつも張り付いて離れない。社会の道筋から外れているという感覚。


浪人生は、人間である前に浪人生なのだな、と思っていました。

普通の人間、学生や社会人は、人生における沢山のうちのひとつの要素として、勉強や仕事があって、またその他に友達や恋愛があって、部活や家庭があって、遊びや趣味があって、それらが集まって人間を構成しているのだと思います。

でも浪人生は、それらの要素の下に、まず大前提として「自分は浪人している」という事実があるわけです。何をしていても、誰かと遊んでいても、「でも自分は浪人生だしな」という思考がすぐに頭を吹き抜けて憂鬱にする。

ていうかたぶん”浪人生”って名前が良くないんじゃないかな。いくらなんでももっと良い呼び方があっただろうよ。”求道者”とかそういうのにしたらいいのに。


2019年 夏〜秋

美術を始めてから一年が経過しました。


描いて、描いて、描いて、



描いて、描いて、描いて、




描いて、描いて、描いて。



そうして描き続けた先に何があるのか。たぶん僕らは、ずっとそれが知りたかったのです。




2019秋~冬

藝大デザイン科のデッサンの試験は、目の前の石膏像を描く"石膏デッサン"と、毎回ランダムに与えられる複数のモチーフを画面の中で自由に構成して描く"構成デッサン"から選択できることになってます。

この頃は石膏デッサンに限界を感じ、あと何より石膏像を描いてても全く楽しさを感じなくなっていました。だってあんな真っ白いおっさんなんて描いて何が楽しいんだ。

そこから脱却してもっと上手くなるために、この時期からは構成デッサンを描くようなりました。

今見るとすげえ下手だな、黙って石膏描いてろよって出来ですね。でも変更して良かったなと思います。



夏あたりで一旦落ち着きかけていた精神はこの辺りからまたグングンと不安定になっていきます。

夏から冬にかけてだんだんと気温が下がっていく感じが本当に嫌なんですよね。あぁ近づいてきてるなあって実感します。

常に他人との比較に晒されるプレッシャー、落ちたらどうしようという恐怖、それらを誰とも分かち合えない孤独、色んなものに少しずつ心が押し潰されていきました。

クソ豆腐メンタルの僕は相変わらず泣いたり病んだりして、そのたんびに生き返ってを繰り返してしました。


この年は成人式があったので、迷ったけど行きました。当時はストレスで髪が真っ白になっていました。ストレスは嘘です。

「なんだよクソみんな楽しそうにしやがって」と拗ねながら、市長か誰かがスピーチしてる間、会場の隅っこでBUMPを聴きながらうずくまっていました。痛々しくてうける。

その後に同窓会がありました。相変わらず拗ねていた僕に皆はとても優しくしてくれたので、皆の前でボロボロと泣きました。ありがとう、また会おうなお前ら。





2020年 3月

二度目の藝大受験本番が近づいてきます。

本番が近づけば近づくほど、溢れ出す恐怖に呑まれそうになりました。それでも時は容赦なく進み、気持ちは追いつかないまま、あっという間にその時はやって来ます。




2020年3月 一次試験

一次試験のデッサンが始まります。昨年はここで落ちています。

去年よりは上手くなったはず、と自分に言い聞かせました。ここまで歩んできた道のりを無駄にはしたくなかった。



試験開始のチャイムが鳴り響きます。あぁいよいよ始まってしまった、と身が竦みます。

出題されたモチーフは、アボカド、鏡、そら豆、任意の球体、の4種でした。

特に変哲のない課題だったので、いつも通りやれば大丈夫、と意識して描き進めます。アボカドのハイライトが美しく見えるように、鏡の反射が格好良く見えるように…。


終わってみると、まぁ悪くはないと思える絵を描きました。とびきり良いわけじゃないけれど、自分の実力が全然出せなかった、ということはなかったです。


一次試験の合格発表までの数日間、気が気じゃなかったです。誰もがそうでしょう。それでも休んでいる暇はないため、みな自分が通過してることを信じて、その間も二次試験の対策をするのです。





一次試験の結果は、合格でした。




結果を見たあと予備校に行くと、人数がそれまでの3分の2くらいになっていました。

受験生全体で見ると一次試験で大体3分の1ほどに絞られるので、予備校の成績としては優秀です。
ですが、その場にいなかった人の中には、予備校でもトップクラスに上手かった人が何人も含まれていました。



ゾッとしました。


だって、みんな一年間、もしくはそれ以上の時間をかけてずっと頑張ってきたのに。辛かった夜も何度も越えて、本番のために、何十枚も何百枚も描いてきたのに。

それなのに、一次試験で落ちたら、色彩も立体も受けさせてすらもらえないなんて。

あらためて、なんて理不尽な試験なのかと痛感します。正気の沙汰じゃない。



翌日からまた予備校で二次試験対策をするのですが、受かったことにも、その場に居ない人が落ちたということにも一切触れず、淡々といつも通り先生たちが話すのを見て、何だか不気味に思いました。



2020年3月 二次試験


予備校での最後の課題を終え、いよいよ二次試験を迎えます。


本番当日の朝、試験会場の前で待機している時の息苦しさを覚えています。一次試験の時から人数は3分の1ほどに減っていますが、「ここに居る人達はみなあの一次試験を通過した実力者なのだ」と考えると、むしろ一次試験より緊張感がありました。

どいつもこいつも上手そうに見えました。この中から更に5分の1にまで絞られ、45人が決定するのです。




色彩構成で出題されたモチーフは、ガーベラ、アスパラガス、シュロ縄、目玉クリップ。そして中心に半径26cmの円を描くこと、それ以外にも自由に円を配置しても構わない。そういった課題でした。


立体構成の課題は、モチーフにリコーダーが与えられて、「メロディー」をテーマに作れ、というものでした。


「メロディー」がテーマの立体って何????




いつも通りやれば大丈夫。またしてもそう言い聞かせます。けれど、いつも通りってなんだ?

だって普段の予備校での制作では、いつも通りなんて意識してません。その時点ですでに僕はいつも通りじゃありませんでした。自分を見失っていました。




結果的には、どちらもまるで良いものを作れませんでした。

初めての二次試験本番ということに必要以上に動揺し、普段やらないようなことをしたり、焦って手順を間違えてとても汚くなったり、と散々でした。

そしてそのまま挽回できずに終わりました。解放感みたいなものはまるでなく、ただ後味の悪さだけがいつまでも残りました。






2020年3月 合格発表

合格発表までの数日間はひたすらに恐ろしかったです。裁判で判決を待つ罪人はこんな気持ちなのだろうかと想像しました。


合格発表はネットで見ることになっていたのですが、サイトに結果が公開されたのが事前にアナウンスされていた時刻より一時間遅く、スマホを持ちながら地獄のような待ち時間を味わわされました。


一時間、ベッドに座ったまま全く動けませんでした。


「どうせ落ちてるに決まってる」「でももしかしたらもしかするかもしれない」

それらを行ったり来たりしていました。


落ちた時に絶望しないように予防線を張りつつ、だけど淡い希望を捨てきれません。



一時間が経ち、藝大のサイトに合格者結果の入試番号が載っているURLが貼られました。

それを押そうとする指は震えていました。全身が心臓になったのかと思うほど、鼓動の音がうるさかったです。







ページを開きます。合格者の欄に、僕の受験番号はありませんでした。




世界から音が消えました。頭が真っ白になりました。




受験で落ちたことがある人なら分かるのではないでしょうか。自分の番号がそこにない、という圧倒的な現実を、そしてその現実感の無さを。途方のない無力感を。


「え、ちょっと待ってくださいよ、もっかいお願いしますよ」
「やだなあ冗談じゃないですか、真に受けないでくださいよ」

そんな風に言いたくても、どこにも言うあてがない。ただ呆然と立ち尽くすのみです。ゲームみたいに、コンティニューは効かない。




人生で一番大きな声で叫びました。ものの数秒で喉が枯れました。どうしてか、ふと生きる意味とかを考えました。


あぁこんなんで俺の挑戦は終わるのか。もう俺は一生、東京藝大には通えないのか。







その翌日くらいに、滑り止めとして受けていた金沢美術工芸大学の二次試験を控えていました。受けた視覚デザイン専攻の倍率は10倍を超えていたので、滑り止めとして成立しているのかは微妙ですが。

対策なんて一度もしたことなかったですし、モチベーションなんてこれっぽっちもなかったですが、藝大に落ちた以上、受けなければなりません。大学への足取りがとても重かったです。


面接もありました。「映画は吹き替えで見るのと字幕で見るのどちらが好きか」など聞かれました。なんの意味があったんだろうあれ。



結果は合格でした。家族との約束があるので、これで金沢に行くことが確定しました。







行きたくなかったです。どうしても、どうしても行きたくなかった。


金沢は、島根よりは栄えていましたが、それでも大学がある辺りはかなり田舎の雰囲気がありました。

僕は島根の、田舎の窮屈さが嫌いです。東京が好きです。路線図と視線が複雑に絡み合い、擦れ違う肩と情報に摩耗する新宿駅が好きです。

東京を離れたくなかったし、日本で一番強いところで美術をやりたいという執着はやはり全く消えませんでした。






もう一度やらせてくれ、と母に懇願しました。静岡大学を休学し美大受験を始めるとき以上のワガママです。


電話越しの母は泣きながら、猛烈に怒っていました。母はこの一年半ずっと応援してくれてました。それでも、僕に見せないところで膨大な不安やストレスはあったのでしょう。それが堰を切ったように溢れ出したようでした。

「どうして美術なんかに、藝大なんかに」


そう怒鳴る母に、僕は何も言い返せません。



それでも、それでも藝大に行きたかったです。盲信かもしれません。僕は親不孝者でしょう。

最終的に母は、もう好きにしてくれ、その代わりこちらからはもうお金は出せないから、とのことでした。




そのあと祖父とも電話しました。祖父は僕が金美に受かった時とても喜んでくれたそうです。だからこそ、そこを蹴ってもう一度受験したいと言われたのがショックだったのでしょう。

祖父には小さい頃からとても甘やかしてもらって、家にもしょっちゅう遊びに行きました。いつも笑っていて、ご機嫌な人でした。



じいちゃんが泣いている声を、僕は生まれて初めて聞きました。






2020年4月

故郷の海です。

この年の春は帰れませんでした。どんな顔下げて帰ればいいか分からなかったからです。

成人式で帰ったのを最後に、2020年度はその後一度も地元に帰ることはなく、家族に会うこともありませんでした。





今年は予備校の学費や生活費を自分で稼がないといけません。なので夏か秋くらいまでバイトしてお金を貯めて、そこから予備校に通うつもりでいました。


ただ、多くの美大予備校には奨学生制度がありました。申し込んだ生徒はその実力や経験次第で、学費の一部を免除されるというものです。

しかしそれも、ほとんどの人の場合免除されるのは全額のうち20~30%くらいで、ほんの一部の人が50%近くまで免除されることもある、くらいらしく、やはり奨学生制度を利用しても僕が一年間予備校に通うのは厳しそうでした。

とはいえ今後のお金の計画のために、現状の自分の免除される額も知りたかったので、一応、各大手予備校の奨学生制度に申し込んでみました。



すると、思ってもみなかった提案を受けました。

「学費を75%免除したら、春から予備校に通えないだろうか」

そう言ってくれたのは、全国実績2位の予備校でした。



この頃の僕は、藝大に落ちた直後で自己肯定感が地に落ちていて、さらに家族とも揉め、慣れないバイト探しもしている最中で、メンタルがガタガタになっていました。

自分の価値が全く分からず、世界の全てが自分を否定しているように思いました。すれ違う人がみな僕の悪口を言っているような気さえしました。


そんな時に、こうして思いがけない形で自分の存在や実力を、少しでも認めてもらえて、泣きそうなくらい嬉しかったです。というか泣きました。



加えてこの頃は全世界的なコロナウイルスの流行の初期で、予備校でも4月5月の間はオンライン授業になることになっていました。

であれば、その期間をバイトに専念してお金を貯めれば、一年間予備校に通い続けることもできるかもしれません。やってやれないことはない。


ということで新たにその予備校に入り、三浪目を始めることになります。美大受験の経験としては二浪目になるのかな。




2020春~初夏

4月〜5月のオンライン授業期間は、昼はなるべく家で作品をつくって、夜や休日はバイトをする、という中々ハードな生活でした。日中に制作し、そのあと一晩中夜勤のバイトをし、また朝から制作をする、なんて日もありました。

そんくらいのことしても人間って意外と死なないんだな。この2ヶ月で多分40万くらい稼ぎました。正社員か。


6月に入り、予備校での制作ができるようになりました。


その予備後は駅から少し距離があり、住宅街の中みたいなところにありました。道が狭く、屋根の隙間に見える電線越しの青空が綺麗でした。

それまでのオンライン授業での、家で孤独に作品をつくる時間は精神的にかなりしんどかったです。だってまだ落ちてから間もないですからね。つくってる間にふと猛烈な劣等感と孤独に襲われ、泣き叫びながら粘土を整えてたこともありました。情緒がやべえ。

久々に予備校で多くの人と一緒に作品を作ると、それはそれは楽しかったです。あんなに嫌だったはずの予備校のアトリエを、そんな風に思う日が来るとは。

ここからは、日中は週6で予備校に通い、そのうち4日くらいは空き時間で3~4時間ほどバイトをする、という生活でした。


この年の嫌な記憶といえば大体バイトに関することです。本当に嫌でした。単発のバイトも含めるとこの一年間で、レジ、引越し、工場作業、警備、ベルトコンベアに何時間も延々とパンを並べる仕事、など色んな仕事をしたのですが、どれも全く楽しくなく、ただただ苦痛でした。

たとえばレジの仕事であれば、客は僕のことを「店員さん」と呼ぶのです。僕の名前ではなく、僕の肩書きを呼ぶのです。当たり前ですが。

つまりバイトをしているその瞬間、僕が僕である必要性や意味などはどこにも無い。誰にも求められてない。ただ都合よく動くことだけを求められている。その自分の無価値さがひどく苦しかったです。


だけど予備校では、先生たちは僕のことを名前で呼んでくれる。僕のことを認識してくれる。そのことが心地よかったです。

将来どんなふうになるか分からないけれど、自分が自分である必要性や意味を、少なくとも自分自身が感じられる生き方や働き方ができたらいいな、と強く感じました。



2020年 夏

夏期講習が始まります。とはいえ、夏季講習は一年間の学費とは別料金がかかり、お金のない僕には全部出ることはできませんでした。

ただその直前にあった、外部の人も来るデッサンコンクールで総合1位をもぎ取ったので、夏期講習が1週分無料になりました。金への執着で描いた絵は強い。

それを含めて、全6週の夏期講習のうち、3週分お金を払い、4週を受けることになりました。残りの2週はバイトです。この2週でまた12万くらい稼いだ覚えがあります。

ところで夏期講習って1週たしか4~5万円ほどするんですが、高すぎやしませんか? これみんなで声上げて社会問題にしたい。


そういえば今までは割愛してましたが藝大受験には普通に共通テストの点数も必要なので、バイト中に上司の目を盗んで自作の単語カードでずっと勉強してました。バレて怒られることありました。反省した素振りを見せた数分後にはまた見てました。バイトの事情より俺の人生の方が大事なんだわ。

嫌いな大人ばかりでしたが、優しい人もいました。藝大受験をしているという話をしたら、「そうなんだ、すごいね。絵を描くのが好きなの?」と聞かれました。

何故かなんて答えればいいのか分からなくて、泣き出してしまいました。





夏の頃は、自分はどういうことが得意な人間で、どういう作品が好きなんだろう、と模索していました。

それを知るために色んなことをしてました。初めての表現や色にチャレンジしたり、あえて苦手なことをやってみたり。

そんで大概失敗します。でもそうやって色んな実験と失敗が積み重なり、ようやく自分の領域みたいなものが規定されていくのです。



あと夏くらいまではまた石膏デッサンも描いてましたね。とても苦手だったので、下手な絵をみんなや先生に見られんのが恥ずかしかったんですけど、でもそのぶん得られる経験値は多かったです。






2020年 秋

予備校に友達ができました。

どうして僕なんかに話しかけてくれたのか分からず、最初は警戒しました。でも話すのは楽しかったので、頑張って言葉を探しました。気づかないうちに人と話すのが随分と下手になっていたようです。

それからほんの少しずつ、他の生徒と話すようになりました。

僕は周りの人たちが怖くて仕方なくて、いつも怯えながら生きていたのですが、その人たちも自分と同じように色々考えて、悩んで、一生懸命生きているんだということを知りました。そんな当たり前のことさえ、僕はずっと知らなかったのです。


そういえばもうこの頃には、美術を始めたてだった頃、そのあまりの上手さに驚愕し絶望した、あの浪人生たちと同じくらいの領域にもう達していたのだと思います。

こんなに上手くなれるわけがない、一生勝てるわけない、と見上げていた場所は、ほんの2年ほどで届く高さでした。


それがなんだかバカバカしくて、少し笑えました。そしてここまでの2年間を振り返り、よく頑張ってきたじゃないかと自分を褒めてやりたくもなりました。



「努力」とか「一生懸命」とか、そういうのとは僕は無縁の人間だと思っていました。高校まで、精一杯なにかに取り組んで成し遂げたという経験がなかったからです。

何をやっても中途半端で、いつも言い訳ばかりで、そのくせそんな自分に満足もできない人間でした。


そんな人間が今こうして、こんなにも必死に、ひとつの目標に向けて走っている。

僕は少しずつ、僕のことを認めてやれるようになっていったようです。そして受験で勝つには、たぶんそれが必要だったのです。


2020年冬

冬になり、バイトを辞めました。バイトの思い出の中で、辞めた日が一番楽しかったです。結局この年は総額90万ほど稼ぎました。それでいて予備校も休まず通ったので偉い。とても偉いぞ。

昨年までは触れてなかった共通テストについてもここらで触れておきます。昨年まではセンター試験だったあれです。

藝大デザイン科の共通テストは、国語と英語と、あともうひとつ科目を自由に選択し、合計三科目で受けることになります。僕は理科基礎(物理基礎と化学基礎)を選択しました。


藝大は実技と学科の点数の比率を公開していないので、どれくらい学科が重要なのかが分からないんですよね。
7割くらい取れたらいいねと先生たちは言いますが、今年の実際の合格者平均点はそんなにいってない気がします。4割で受かってる奴とか何人もいるし。


1月に共通テストを迎えたわけですが、英語リーディングの文章量がとても多かったのが印象的です。下り坂を駆け抜けるように、爆速で英文を処理していきます。普段味わえない感覚だったので興奮しました。点数は合計で8割ちょっとでした。



2021年 入試直前講習

共通テストも終え、今年もいよいよラストスパートです。
現役生も浪人生たちと同じ昼間部に加わり、最後の高め合いに入ります。一人残らず必死で、互いの人生を懸けてしのぎを削ります。

一年の中で、この時期が一番伸びます。特に現役生。ほんの一ヶ月で、まるで別の人間になります。浪人生の僕はその成長速度にただただ震えていました。でも僕だって負けてはいられない。

この立体、約2年前に作った自分の作品のセルフオマージュですね。というか、そうか、そんなに経っていたのか。

そういえば僕はこの年の志望校は藝大一本に絞っていました。他に行きたい大学もなかったし、行きたくない大学を受けても仕方ないなと観念しました。もし落ちたら、またそんとき考えればいい。



本番まで残り僅か、もう何枚も描けません。


そう思うと少し寂しくなり、そしてふと周りの人達の顔を見ると、自分の中に今まで生じたことのない感情が生まれました。



もうとっくに当たり前になってしまったけれど、あらためて考えれば、恐らく全国の同世代の中でもトップクラスに真摯に美術に向き合ってきた、そんな優秀な人たちがこの場所には何十人も集まっていて、こうして毎日作品をつくっているのです。なんて凄いことが起きているんだろう、と至極初歩的な感動を抱きました。

そんな彼等彼女等の顔は、もう、すっごく格好いいんです。真剣に自分の作品に向き合う人の顔はこの上なく美しいです。艶やかで、官能的で、生き生きとしていて。


そうやって考えているとしばらく鳥肌が止まらなくなって、何だか涙が出てきそうでした。


受験なんて、外から見れば大したことではないことかもしれない。でもその渦中にいる人たちからすれば、受験はその瞬間の人生の全部です。一人ひとりの命が懸命に輝いているその一瞬に立ち会えているという喜びと尊敬、そしてそういう人たちと共に戦える高揚と感謝が、今一度自分の中に強く宿りました。






本番が近づくほど怖くて仕方なくなるけれど、怖いのはたぶん、これまで頑張ってきたという証拠のはずです。僕はもう、屋上でBUMPを聴いていたあの頃の人間ではないから。




一次試験の前々日に描いたデッサンと、前日に描いたデッサンです。前日に描いた方は、翌日に備えて早めに帰ったので途中で終わっています。もうやり残したことはありません。


予備校を出る直前に少しだけ話しました。

「先生、俺、少しは上手くなりましたよね?」

「そりゃそうでしょ。最初の頃と比べたらめちゃくちゃ上手くなったんじゃない?」


「ふふ」と、僕は笑います。

「そっか、それなら大丈夫かな。行ってきます」



さあ楽しんでいこうか。一年に一度の祭りです。




2021年 3月2日 一次試験当日

レッドブルを毎朝制作前に飲むのが僕のルーティンで、その日もいつものように買っていました。


カコン。


こぼしました。開始前の本番会場の、自分の席の床に。何をしているのか。そもそも会場は飲食禁止だったので、試験官に注意されてレッドブルは回収されました。

動揺したまま、試験は始まります。何この逆境。





出題されたモチーフは、手、アルミホイル、ガラスコップ、荒縄の4種類。至って普通のモチーフです。



あぁ、大丈夫。



これなら、俺なら、描ける。



7時間はあっという間に過ぎました。特に焦ることも無く、ただし客観的視点を失わないよう何度もトイレに行って冷静になり、そして時間の限り描き込み続けました。



描いて、描いて、描いて、



そうして描き続けた先に何があるのか。僕らはずっとそれが知りたかったのです。




2021年3月6日 一次試験合格者発表


結果は合格でした。

柄にもなく、大きな声を上げてガッツポーズをしました。



しかし本当の戦いはここからです。

予備校に行きます。合格者が集まっていました。

ぐっと人数が少なくなっていました。落ちた人のことを思うと、心が張り裂けそうです。だけど同時に、自分は生き残ったのだという高揚もあり、とても複雑な気持ちでした。



この予備校での、客観的に見た僕の構成デッサンの実力は、恐らく上から2番目だったと思います。

絶対に1番ではなかった。彼女はそれほどに上手かった。その人は僕より年下だったけど、僕はその人に憧れ続け、嫉妬し続け、追いつこうと目指し続けていました。


けどこの日、その人は予備校に居ませんでした。



あんなに上手い人が受からない藝大受験ってなんなんだろう。本当に正しい受験として成立しているのか、僕には分かりません。


自分勝手だけど、本当に、傲慢で仕方ない考えだけれど、ここに居たかった人の分まで勝ちたいなって、心からそう思ったのです。


2021年 3月7日~3月9日

ほんとのほんとのラストスパートです。

かなり仕上がっていました。思考もモチベーションも整理されていました。



この三日間でつくった三作品です。


二次試験前日、制作が終わったあとの予備校のアトリエを見つめていました。次にここに帰ってくるのは、もう全部戦いが終わったあとです。興奮と緊張が入り交じって叫び出したい気分でした。


各々が色んな表情をしながら、友達と話したり、画材の準備をしたり、一人で集中してたりしてました。明日から敵になるその人たちのことを、僕はとても愛おしく思いながらアトリエを後にしました。




2021年3月10日 二次試験一日目 色彩構成


前日の夜は全然眠れませんでした。睡眠時間は3~4時間ほどだったでしょうか。少し焦ります。



出題された課題は、小松菜、菜箸、起こし金、任意の水の表情、を組み合わせて色彩構成しなさい、というものでした。

まずなんと言っても地味なモチーフたちです。花や魚のような、分かりやすく魅力的なモチーフがありません。僕の作品は派手さを信条にしていたので、またさらに動揺しました。



どんな構成にするか、普段は30分ほどで決めるのですが、この日は動揺して1時間近く悩んでしまいました。そしてその決めた構成も自分の中で完全に納得いくものではありませんでした。

焦りは次の焦りを生みます。ずっと動揺したままで、絵の具の乗せ方も少しずつ雑になりました。このままじゃダメだと頭では分かりつつも、画面は一向に良くなりません。



去年の試験本番のことがフラッシュバックします。

動悸が早くなります。冷や汗が流れます。



気づけば涙が流れていました。あまりの恐怖で泣きながら描いていました。ぼやけて自分の絵が見えなくなるから、そんなの流してる場合じゃないのに。なのに止まりません。
絵を描いていてこんなに怖かったことは中々なかったです。


「このまま俺は落ちるのか?」
「また去年と同じことを繰り返すのか?」
「なんのための一年間だったんだ?」
「そもそも俺に藝大なんて無理だったんだ」



冷静になろうとトイレの個室に入り、頭を壁に打ち付けました。呻き声も上げました。
もう嫌だ。こんなに辛いのは嫌だ。家に帰りたい。





心はとっくに折れていました。





だけど、それがどうした。

慣れてんだよそんなのは。今までだってずっと、折れてばっかの粉々の心でここまでやって来たんだよ。何度でも立ち上がってきたんだよ。



諦めてたまるか。終わってたまるか。





同時に叫んでいました。もう逃げ出したいと泣く心の折れた自分と、絶対終わってたまるかって、折れた心を薪にして火を燃やす自分が。


恐怖なんて関係ない。受かるか落ちるかすらも、もう関係ない。最後の最後まで、この絵が少しでも良くなるように、手を動かし続ける。頭の中にあるのはそれだけです。この絵のポテンシャルの、限界まで。





試験が終わった帰り道、決して晴れやかではない気持ちで歩いていました。ここで安心しても落胆してもいけません。まだ明日があるのだから。そこに全て懸かっているのだから。






2021年3月11日 二次試験二日目 立体構成

「感情の手」を大テーマに、喜び、怒り、慈しみ、驚き、悔しさ、から1種類感情を選び、作品のテーマや背景を詩の形式で書きなさい。

という課題でした。



詩!?



なんだその課題は。昨日に引き続き動揺します。


この日も、どんな作品を作るか決めるのに1時間近くかけてしまいました。幸先が悪い。まずい。


「怒り」を選択し、成形を開始します。かなり難しい形を選択したので完成度を上げ切れるか時間との戦いでした。

しかしそもそも、荒付けの時点で形が格好よくなりません。ちょうどいいバランスが見つからないのです。ただでさえ時間が無いのに。とても焦ります。


だけど諦める選択肢など当然ありません。絶望してる暇はありません。

昨日と同じように、冷や汗を流しながら、挫けそうな心で手を動かします。絶対に格好良い作品にしてみせる。


一生懸命作業を進めていくうち、少しずつバランスが整ってきました。時間も、十分ではないけれど全く足りないということもない。これなら、もしかすると、いけるかもしれない。

僅かですが希望が見えてきました。







なのに。





試験終了の、一分前のことでした。

自分の作品の中心部に、亀裂が入ったのです。






パニックになりました。

亀裂が入ったということはそこから折れ出します。つまりこの作品は、数秒後には間違いなく崩壊します。

完成度などの問題ではなく、そもそも作品として成立しなくなります。




なんで? ここまで、ずっと問題なく保っていたのに。

今までこんなこと、一度もなかったのに。





試験終了まで、残り数十秒。

大急ぎで形体の補強をします。亀裂を塞ぎ、下側に粘土を足し、強引にバランスを直そうとします。



ですが本来、一度粘土に亀裂が入ってしまうと、表面を取り繕ったところで内側の構造の問題は解決しないので、時間が経てばまた同じところからから割れて、崩壊します。

つまりこれは、一分足らずで解決できることでは到底ないのです。








無情にも試験終了の鐘が鳴り響きます。

試験官が作品に名札を貼るように指示を出すのですが、僕はその場に立ち尽くして動けませんでした。


一応何とか現状形を保っているけれど、あと数秒、数分したら崩壊するかもしれない。

でももう試験時間は終わったので、今から作品に触れたら失格になってしまう。もうこれ以上、できることがない。



もし壊れたら? 受かるわけがない。

というかそもそも、壊れなかったとしても、あの作品で勝てるのか? 最後強引に補強したことで、表面がかなり荒れて完成度が下がってしまった。


やり直したい。やり直したい。


こんなことで俺の今年の受験は終わるのか??






真っ白になった頭のまま、会場を後にしました。






あまりの絶望に呆然としながら、とても一人で抱えきれなくなったので、帰り道にあった公園で母に電話をしました。

起きたことを伝えました。


「ごめん、ダメかもしれない。たぶん、ダメだと思う。ごめん。」


そう話しました。話してるうち、涙が次から次へと溢れて止まらなくなりました。



同時に溢れ出したのは今までの記憶です。

小学生から高校生までの日々。ノートに落描きして先生に怒られたこと、放課後に絵を描いて、それを友達に褒められ得意げになったこと。家族と過ごした思い出。母が笑っていたこと。


そして美術を始めてからの毎日。

浪人生の実力に絶望したこと。毎晩泣いていたこと。
悔しかったこと。恥ずかしかったこと。惨めだったこと。

上手くなったこと。調子に乗ったら失敗したこと。バイトが嫌だったこと。傷ついたこと。逃げ出したこと。

友達に話しかけてもらったこと。先生に褒められたこと。それらが嬉しくて嬉しくてたまらなかったこと。

絵を辞めたかったこと。辛くて辛くて仕方なかったこと。
それでも辞めなくて良かったと思う日がたまにあったこと。



今までのあらゆるシーンが、浮かんでは消え、浮かんでは消え、浮かんで、もう消えなくなりました。




それなのに、最後がこんなかよ。あんな初歩的なミスで全部水の泡になっちまうのかよ。家族にワガママ言って、あんなに悲しませて、あんなに迷惑をかけたのに。


情けなくて情けなくて、ずっと泣き続けました。




けれど母は言いました。

「一年間、自分で学費を稼いで予備校に通うなんて、絶対に無理だと思ってたよ。家族ともそう話してた。

だけどそれをやり遂げちゃったね。予備校にも毎日休まず通って、すっごくすっごく上手くなったね。地元から飛び出してたった一人で、よく頑張ったね。

誰にでもできることじゃないよ。すごいね。自慢の息子だよ。」




どこからこんなに涙が出るのかってくらい、僕は泣き続けました。



そんなに優しい言葉をかけないでくれ。俺なんかに。




2021年3月12日~3月14日

合格発表までの間、どんなことを考えていたのか思い出せません。呆然と過ごしていた気がします。


どうせ落ちてるに決まってる、と思い込むようにしてました。落ちた時のダメージを少しでも減らしたかったからです。だってどうせ落ちてるんだから。


合格発表の前日に、共に受験をした友達と遊びました。最初に僕に話しかけてくれたあの友達です。ただ、どんな時も合格発表のことが頭をちらついて、まるで集中できませんでした。お互いそうでした。


来年はどうしよう。予備校はいつから通えるだろう。学費はどんくらい安くなるだろうか。もうバイトしたくないなあ…。









2021年3月15日 最終合格者発表

コロナの影響で大学での合格発表が無くなったので、昨年同様ネットで結果を見ることになりました。


合格発表の時刻は午前10時だったかと思います。それより少し前に起きて、その時を待っていました。


「どうせ落ちてる。どうせ落ちてる。だから期待なんてするな。」
「結果なんて分かってるじゃないか。さっと確認するだけだ。」



10時になりました。サイトにURLが公開されます。ここをタップすると、合格者の一覧が出ます。

思い出されるのは去年の合格発表です。期待を込めて開いたページに、自分の番号がなかったこと。あの瞬間のことがトラウマになっていました。


押せませんでした。押そうとするとどうしても去年のことが頭をよぎって、体が震え、指がそれ以上進みませんでした。



それから、40分近くが経過しました。そんなに経っても僕は結果を見れませんでした。



すると、母から電話が入りました。母には事前に受験番号を伝えていました。

電話に出ます。母の声が聞こえます。







「あんた受かってるよ!!!」









何を言っているのか、分かりませんでした。

信じられませんでした。





は????????



ただまたしても、次から次へと涙が出ました。本当に僕は、昔からいつも、泣いてばかりで。



去年のように叫びはしませんでした。ただ静かに泣き続けました。



どうやら、合格したようです。東京藝大に。











その日の午後に予備校に挨拶に行き、先生たちにお礼を言いました。

そこには他の合格者たちもいました。

受験前はあんなに人がいたのに、そこにいたのはほんの数人でした。


他の人たちを差し置いて、僕なんかが受かっていいのか? と後ろめたく、素直に喜べませんでした。発表前日に一緒に遊んだ友達はそこに居ませんでした。

受験は理不尽です。人生は残酷です。




描いて、描いて、描いて、そうして描き続けた先に何があるのか、その答えは未だに僕には分かりません。

あんなに苦しい思いをして、長い時間と高いお金をかけて、それでも目指した場所に辿り着ける人は多くない。努力をした人が報われるとは限らない。


だけどそんなこと、誰だって最初から知っている。


答えが分からないから僕らは不安になるけど、答えが分からないから僕らは描くのです。昨日も、今日も、明日も。




他の合格者たちと一緒に駅まで帰りました。いつもの見慣れた、今まで歩いてきた狭い道です。よく晴れた日でした。

一人が言いました。

「なんか今日のこの道、輝いてね??」

僕はようやく笑いました。たしかに輝いて見えたよ。





あとがき


ここまで読んでくださりありがとうございます。僕の受験についての話は、ひとまずこれで終わりです。

その後、入試作品の再現を予備校で描きました。試験本番で描いた実物ではないですし、特に立体についてはかなり曖昧な記憶で作ったので、恐らく試験の時のものとは色々違うのですが、一応載せておきます。

何かの参考になれば幸いですが、本当は参考にしない方がいいですね。

ちなみに立体の亀裂の入った部分は、手の甲付近です。手がへし折れて落ちそうになってました。

結局折れずに耐えてくれたのか、折れた上で総合点が合格ラインに達していたのか、真相は分かりません。




藝大に入学してから5ヶ月ほど経ちました。あれほど憧れた藝大生活ですが、ぶっちゃけ楽しさより苦しさの方が大きいです。課題は大変で、人間関係は難しくて、自分のつくりたい作品もよく分からなくて。

だけどまぁ、そう悪いことばかりでもないです。来て良かったとは思ってます。


結局、大学に入っても、自分自身大きく変わったりはしませんでした。

好きな小説も映画も変わらないし、BUMPも毎日聴いてるし、ひとりで泣く夜も余裕であるし。それが残念でもありますし、それが嬉しくもあります。

じゃあ結局、藝大って一体なんなんだろうな。それはきっと、これからの僕が見出すものなのでしょう。




これを読んでいる受験生、浪人生、もとい求道者のあなたへ。

楽しんでいるなら勿論それでいいのですが、多くの人はそれだけではないでしょう。

辛さや苦しさ、惨めさや虚しさ、色んなネガティブな感情が内側で渦巻いてもいるのではと思います。

そういう感情があることに、どうか誇りを持ってほしいです。

だって、全部諦めて、逃げ出したって構わないでしょう。自分の人生なのだから、誰にも文句を言われる筋合いはない。

だけどそれをしないあなただからこそ持つ感情だから。そういう自分を肯定してあげてほしい。どうか宜しくお願いします。



本当にありがとうございました。それではお互い、負けずに生き抜きましょう。



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