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普通な人なんていない

先日、学生時代の友人と会った。友人は最近籍を入れたので、自然と話題はそのことになる。

友人はもう数年前から夫となった人と一緒に暮らしていたが籍を入れていなかった。今回も本当は籍を入れたくなかったという。特に入れる必要を感じないし、名字が変わるのが嫌だからという理由だった。なので通称として旧姓を使える制度を利用し、世帯主も分けたという。

一方、私は名字が変わることに何の抵抗もなかった。名前が変わっても自分は自分だという感覚があるからだ。

ここで言いたいのは、名字が変わることが男女の不平等だとか、自立してるしてないうんぬんという話ではない。むしろ逆に近い。私たちは自分の属している社会に影響を受け、現在までの選択に裏打ちされた個人的な選択をしていて、それは誰にも、どんな社会にも否定されない。私たちは強く生きたいわけじゃない、戦いたいわけじゃない。ただ自由に、自然に生きたいだけということだ。

友人は家族との折り合いが悪くしばらく連絡を取っていないとも言った。
家族は煩わしい。だが名字は残しておきたい。一見、矛盾を抱えたまま行動している。これは別の友人だが、結婚はしたくないが子どもは欲しいので、そのことについて真剣に考えている友人もいる。

知らない人から見れば、私たちは普通に働き、普通に結婚し、普通に生きてるように見える。けれども、個々人がそうした矛盾を抱えたまま自分なりの選択をし続ける限り、普通なんてないと思う。普通の会社員でしょ、普通の主婦でしょ、そんな蔑みの入った断定を見るたび、私は決めつけるなと思う。本人たちですら矛盾を抱えて行動しているのに、他人が断定できるわけがないのだ。

学生時代の友人と話すたび、私は普通というものはなくてそれぞれの生活があるだけなのだとあらためて思う。それは他人の選択を「自分とは違う」とは言っても、絶対に否定せず耳を傾け、矛盾したままの気持ちをそのまま受け取る姿勢を彼女たちが持っているからだと思う。おかげで私は、自分は自由な存在なのだと安心して今日を過ごせている。

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