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いまの私と神戸

「どっか行ってきたら」
子どもは見ておくから、と同居人が言った。昨日の昼だった。

私は会いたいと思った友人に連絡をしたが、誰も空いていなかった。明日突然、昼限定、しかも自粛明けだ。無理もない。みんな恋人に会いに行ったり遊んだりするのだろう。

そのときふととても懐かしい気持ちになった。週末や仕事上がりに恋人や友だちと会う。美術館や映画館へ行き、美味しいご飯を食べお酒を飲み、真夜中の電車で一人へと帰っていく。そうだったときの気持ちが手で触れそうなぐらい、自分の心にしっとりと降りてきた。こんな気持ちいつぶりだろう。私にとって恋人はもう恋人でなく家族だ。子どももいる。その日常とは確かな隔たりがあり、もう戻ることはできない。

したいことを決めきれないまま朝になり、行きたいところをあげるも絞りきれない。子どもは泣いている。掃除もしないといけない。なんとかマップに数カ所クリップし、ご飯も食べないまま昼過ぎにバタバタと家を出た。

子どもといると先の予定を組むことは難しくなる。なにが起こるか分からないからだ。それにこうしてぽっと出た時間でできることなんて限られている。それを自由な時間だと思わないでほしい。そんなことを考えていると涙が出そうになった。

子どもはかわいいのに、大好きなのに、そのせいでできないことがある。それを認めたくない。なんだか子どもを否定してしまうようだからだ。この気持ちごと受け入れられたらいいのに。そんな余裕があればいいのに。そんなことを思いながら神戸線に揺られていた。六甲の山々を眺めながら。

神戸三宮で下車し、昼ごはんを食べようと訪れたのは「トアロードデリカテッセン」。サンドウイッチルームという響きがかわいくて、たったそれだけの理由で行ってみたいと思っていた。

かわいらしい名前とは裏腹にサンドウイッチルームはシンとしていて、英国紳士が佇んでいそうな雰囲気。レースカーテンから射す光さえ上品で、部屋全体に異国の趣きがある。神戸らしいお店だった。

注文したコロッケとミンチカツサンドは熱々で、噛むと油が滴って、これは確かに私一人のために作ってもらったものだと思った。静かで上品なサンドウイッチルームでそれらを頬張っていると、あの頃の日常に帰っていくようだった。どれだけ喋って笑って騒いでも、最後は一人へと戻っていくあの日常。自由と孤独を自在にチューニングして、生活を乗りこなし、ときに乗り損ねたりしていたあの頃。思えばあのときにも悲しみはあった。

しばらくすると、目の前のテーブルに座っていた母娘のところにサンドウィッチがやってきた。ミックスサンドとソーセージサンド。ウェイトレスさんが「ミックスサンドのお客様は」と問うと、二人は「分けるので真ん中に置いてください」と言った。そのまま分けるので取り皿も要らないと。中学生ぐらいの女の子とその母親は、さっきまで触っていたスマホを置いて、静かに、でも自然にしゃべり、食べる。その背景には「家庭」があった。二人が普段過ごしているキッチンやダイニングが浮かんでくるみたいだった。

いいなあと思った。私もこうなれる日が来る。いや、今だって。子どもと一緒に楽しめることがある。余裕もないし泣きたくもなるけれど、そのときどき、今の自分だからできることを楽しみたいと思った。

そうやって死ぬまで生活を愛したい。

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