花と小鳥【3】
《3》
花はさっそく鳩居堂の包装紙でつくった花と鳥のブックカバーを文庫本にかけてきた。ページをめくる彼女の肩にやわらかな陽射しが落ちている。今はもうこの世にいない吉田さんの奥さんと同じことを、花がしている。二人は互いのことを全く知らないのに。不思議な感じだ。
「花は、なんで私のこと好きになったん」
あかりちゃんに言われてからずっと気になっていたことだった。
「それは」
「それは?」
「一言ではいえないかも……」
花は神妙な顔をして黙ってしまった。ちゃんと答えるからもうちょっと待ってほしいといわれ、その日はなにもきけないまま家路についた。
五条大橋を渡る。そのふもとにある扇塚を横目に見る。といってもこれはほんとうの塚ではなく、このあたりが扇発祥の地であることをしめす碑のようなものだ。今でもこのあたりには扇やさんが何軒かある。なっちゃんの家もそのうちのひとつだ。その立派な町家の角を曲がり、路地へ入る。
なっちゃんとあかりちゃんがキスしていたのもここだった。こんなところでしたらあかんよ、と言いながらあかりちゃんは恥ずかしそうに俯いていた。それはたしかに恋をしている女の子の顔で、私の見たことのない顔だった。そんなあかりちゃんを独り占めしてるなっちゃんはずるいと思った。ずるいと叫べばよかった。叫ばなくても、見たよって言って弱みを握って、どうとでもすればよかった。でもそんなことできなかった。二人はとてもしあわせそうで、その世界を私は壊したくなかった。誰にも言えないまま、この気持ちが何なのかよく分からないまま、私はその夜一人で泣いた。
***
次の日は調理実習だった。家庭科室の広いテーブルには、ランチマットの上に今しがた作り終えたマフィンとジャムが並んでいて、真ん中に水仙の活けられた花瓶がおかれている。
あの日買った便せんと同じ、白い水仙。ランチマットはコピー用紙に花柄を印刷しただけのものだけれど、あるだけで気分が少し上向きになる。ただ作って食べるだけじゃなくて、そういうところまで気を配ってくれる先生は大人だなって思う。
「水仙、綺麗ですね」
片付けの時、花瓶を先生のもとへ持っていった。
「家に咲いてたから、ちょうどいいと思って切ってきたの。持って帰る? このクラスで最後だし」
先生は笑って言った。
「いいんですか」
私は聞くなり、各テーブルにあった水仙を集めて二つに分けた。私の分と、花の分。おばあちゃんがいただき物の花をよくみんなに分けていたことを思い出しながら手を動かした。ティッシュを濡らして切り口にあて、家庭科室のアルミホイルを少し拝借して包む。ランチマットのペーパーをまいてとめる。そういえば今朝、校門前で塾のビラをもらったことを思い出す。ビラが入っていた透明の封筒の上下を開いて、ペーパーの上から被せた。これでいくらか形になるだろう。
***
図書室に入るなり水仙の花束を渡された花はまるい目をさらにまるくして、ありがとう、と言った。
「今あるもので全部あつらえたんだ。すごいね琴里。おばあちゃんみたい」
「確かにおばあちゃんの真似やけど。褒めてるの、それ」
「うん。私、琴里のそういうとこ好きなんだ」
そういうとこって、どういうとこなんだろう。そういえばまだあの返事をきいていない。黙る私をよそに花は続ける。
「水仙ってナルキッソスっていってね」
「ナルシストの語源なんやろ」
「さすが」
水面に映る自分に恋をしたナルキッソス。見つめ続けても水に映る自分は想いにこたえることはなくて、結局その苦しみで死んでしまう。なんだか私みたいだなと、うつむくように咲く水仙を見て思った。
「何考えてるか分かるよ。自分みたいだって思ってたんでしょう」
黙ってばかりの私に花が投げかける。声色で、いつもと感じが違うのがなんとなく分かった。
「じゃあ少しは私の方みてよ」
ぐいと三つ編みが引っ張られる。あかりちゃんの真似をして、昔から結い続けている三つ編み。それを手繰り寄せるようにして花はゆっくりと唇を近づけてくる。
「ねえ琴里、私あかりさんに会ったの初めてじゃなかったの」
白い端正な顔が眼前にせまる。
「みたんだ、春ごろに。あかりさんともうひとり、綺麗な女の人がここに遊びにきてるの。それを見てる琴里を、私はみたの。琴里の視線、すごく熱かった。多分羨ましいんだろうなって思った。だから私、琴里なら相手してくれるかもって思って近づいたんだ」
ああそうか。そういうことだったのか。
「奈都さんっていうんだってね、その人。私に似てるって。デートした日の帰り道にあかりさんにきいたんだ。『なっちゃん』って呼んでたよ。あかりさんと付き合ってたんだって」
知りたかったけれど、知っていたけれど、知りたくないことだった。もうやめてほしい。
「琴里、本当は私に興味あるでしょう。キスだって、してみたいでしょう。素直になってよ。私を受け入れたら、自分のことも受け入れられるんだよ」
「やめて」
口にしたら、唇がふれあった。拒否したのに心は完全に認めていた。
「私は奈都さんじゃないから。琴里だってあかりさんじゃないよ」
花の声を背に、私は図書室を出ていった。
***
その日あかりちゃんは遅くにお店にやってきて、閉店時間までコーヒーをすすっていた。時間がくると、手伝って帰ろうかな、と言って表の看板を裏返してから洗い物をはじめた。
あかりちゃんはなんでもお見通しなのだ。すごいなと思う。私は今日あった花とのことを話した。そしてきいた。
「あかりちゃんは、なっちゃんと付き合ったはったん」
「そうやね」
分かっていたことだけれど本人から聞かされると少し胸にきた。そんな私をよそにあかりちゃんは布巾で丁寧にカップの水滴を拭っては、ハイ、と手渡す。
「琴里ちゃんはなっちゃんのこと嫌い?」
「嫌い……」
口にしてから考えた。静まりかえった店内に、カップの擦れるカタ、カタという音だけが響く。あかりちゃんは私の言葉をゆっくり待ってくれていた。
「ううん、好き。私、あかりちゃんもなっちゃんも好きやから、羨ましかった」
胸の底に溜まったザラザラが少しずつ消えていくのが分かった。私はずっと言えなかったことを言った。
「私、あかりちゃんになりたかった。そのことなっちゃんに言うたら、琴里はあかりにはなれないって言われたんや。それから私、何してもあかりちゃんの偽物で、自分っていうものがないような気がしてて……」
あかりちゃんはそっか、と俯いた。それから静かに話しはじめた。
「そのことなっちゃんと話したことあるわ。琴里ちゃん頑張って嶺女入ったのにそんなこと言うたらあかんよ、て言うたんよ。そしたらなっちゃん言わはったの。誰もあかりにはなれない、って。そういうことは早く知っておいたほうがいいって」
思わずカップを置く手をとめて、あかりちゃんを見つめた。あかりちゃんは続ける。
「なっちゃん、私になりたいってずっと言うたはった」
純真で、潔白なもの。私たちはそれを手に入れたいと思った時点で、手に入れることはできない。その時点で自らの汚点を認めているようなものだから。それにそれは手に入れようと思って手に入れられるものではない。なっちゃんもその一人だったんだ。なっちゃんは私に自分を重ねていた。やっと私もなっちゃんに自分のことを重ねられる。そして知る。私は、私でしかないという当たり前のことを。
「でも私がこんなにのんびり過ごしてこれたのはなっちゃんのおかげ。なっちゃんがおらんかったら今の私はおらんのよ。だから私になろうとしいひんくても、なっちゃんはちゃんと私やったのにね」
あかりちゃんは今、いろんなことを思い出してる。それは二人にしか分からないことだ。
「琴里ちゃんは自分がないって言うてたけどね、絶対的な自分なんてものはあらへんよ。いろんな人やものから選びとった一つ一つが琴里ちゃんやと思うよ。それを好きと言ってくれる人がいるなら、向きあうぐらいはしてもええんとちゃうかな」
私はしばらくあかりちゃんの腕の中で泣いた。
「髪、このほうがかわいいわ」
まっすぐにおろした私の髪を撫でながら、あかりちゃんは言った。
《4》
翌朝も私は店に立った。昨日、あかりちゃんが裏返した看板を表にもどす。郵便受けを覗くと、小鳥柄の封筒が一通入っていた。その柄には見覚えがあったので差出人をみなくても、すぐに誰からのものか分かった。私はその場で封を切った。
***
関琴里さま
お元気ですか。私は元気がありません。なぜなら琴里を悲しませてしまったからです。
琴里、私が琴里に近づいた理由は、たしかに言ったとおりです。でも今、私は包み紙でカバーをつくったり、そこにあるもので花束をつくってくれる琴里が好きです。今あるものを大切にしてる感じがいいって思います――。
***
ああ私、自分のことしか見えていなかった。自分だけ見て自分が分かるわけがない。考えて、閉じこもって、分かるわけがない。私はまっすぐな目で世界を見つめたいと思った。この世界には、何も隠されてない。そのままの目で見つめればいいだけだ。それが私だ。
私は指先でその文字をなぞってから、便せんに描かれた小さな鳥をそっと撫でた。
お店番が終わったら返事を書こう。花の好きなところをたくさん書こう。麻の葉模様の文庫箱から、水仙の花が咲く便せんを取り出すところまで頭の中に思い浮かべた。
気づくとあかりちゃんがお店の前に立っていた。
「明日、なっちゃん帰ってきはるって。駅まで一緒にお迎えいく?」
「うん。花もええかな」
「もちろん」
あかりちゃんのケータイが鳴った。そのやさしい表情で、誰からかかってきたのかすぐに分かった。それでも私はもう寂しくなかった。
「迎えにいくわ。三人で」
あかりちゃんはやわらかく笑いながら、その向こう側に話しかける。
「うん、そう、会わせたい子たちがいるの」
《了》
***
「花と小鳥」ふろくのコラム
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