ふと振り向くとそこにいる寂しさの話

吹く風も次第に夏めいて参りましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

就職して半年、配属が決まって実家を出て5ヶ月が経とうとしている。
彦根で4ヶ月近く暮らした後に、この地に引っ越して1ヶ月が経とうとしている。周辺は閑静な住宅地で目印になるものがさっぱりなく、スーパーマーケットやらコンビニ、飲食店などはすべて駅周辺にあり、さてその駅への所要時間は徒歩何分だろうかというと、15分はかかる場所である。では徒歩15分以内には何があるのかというと、家である。それとグーグルマップを見る限り家か空き地ではと思うようなケーキ屋と料理教室なのか食事処なのかなんなのかよくわからない家。
そんなわけでグーグルマップがないと某人気歌手よろしくどこへも行けなかったのだが、最近なんとなくの記憶と方向感覚によりマップがなくとも多少の場所は行けるようになり、土地勘が身に着いたな…と思う。
寂しい。

彦根に居たときは、家から自転車を10分ほど走らせると辿り着く国道に大体のチェーン店があったし、10分歩くと辿り着く駅に行けば鳥貴族とサイゼリアがあったので、いつでも慣れ親しんだ味を楽しむことができたのであまり寂しく思うこともなかったと思う。今もそうと言えばそうだが、当時は本当に何から何まで新しくてホームシックになる暇がなかったのかもしれない。パイセンもいたし。

前職時代、友人の勧めで(大体が)個人で営業しているお店を訪ねることをしていたが、閑静な場所ではチェーン店より個人が自宅で営んでいるお店が多いような気がする。回った場所が少し外れたところばかりだったかもしれない。この地もそのような感じで、今日立ち寄った飲食店も店主が自分の名前から名付けたのだろう店名の、看板と暖簾と営業中の文字がなければ気づかなかっただろう場所に周囲の家より多少店っぽさがでる雰囲気の店だった。
先週一度行って僕のお気に入りお店の一つになったがそれはまたの機会に話そうと思う。
結論を言うとチェーン店が死滅しており、行こうと思うと隣の府県に出るしかないが、決して近いわけでもないので、慣れ親しんだ味を楽しみたいなら短くはない時間をかけて慣れ親しんだ地に帰った方が早い有様である。
寂しい。

そして本題に入ろうと思う。前置きがえらい長いな。
これは誰にも言えないひそかな悩みなのだが、実家のある地にいる友達だったり前職の人間とお会いするのがものすごく億劫である。
これは実は彦根から引っ越しする間際から発生している悩みなので慣れ親しんだ味に会うのが難しいのは大して関係がない。
面倒くさいとかではなく、ただただ億劫なのだ、気が進まないというべきか。何がと言われると難しいし、面倒くさいのではなくただただ気乗りしない。
何故なのか。
考えてみると色々ある。例えば土日にしか休みがない僕と、土日は仕事な友人だと時間が金曜日だとか土曜日の夜だとかしか合わない。大体金曜日の退勤後に電車に飛び乗って帰阪するが、作業着を持っていくのも荷物なので必然的に帰宅する必要があり、再び駅に行こうと思うと普通にしんどい。そういう理由もある。
しかし一番は寂しいのだ。帰阪する度に彼らの日常が、かつての僕の日常が、今の僕には非日常になっていることがたまらなく寂しい。
過去にはたしかにその場にいたのに、慣れ親しんだその場所に僕のこれからはない、それがどうしようもなく寂しい。

まして寂しさを吐いてみたところで、僕は僕の考えが、思いが、願いがあって今を歩いている。膝を抱えて蹲っても、そもそも自分が決めたことなのだから、やっぱり歩かないといけない。それがただただ寂しい。

例えば、友人の住まいが難波だからといって難波で待ち合わせると、一時間と半分車窓に見慣れない景色を写す電車にごとごと揺られて、そこから数分薄暗い地下鉄にごとりと揺られる。以前は見慣れた景色を写すモノレールと間違われがちな電車に乗って薄暗い地下鉄にごとごと揺られるだけでたどり着けたのに、僕はもう慣れ親しんだ路線のユーザーではなくなったことを感じる。
例えば天王寺に望みのものがなければ上本町に行く。元々天王寺で望みの物が入らないことはあまりなかったし、上本町は仕事や高校の行事がなければ歩かないのでなんとも言えない気もするが、引っ越して天王寺に行かなくなり、そもそも梅田で完結してしまう。もし用事で天王寺に立ち寄ったついでの買い物で望みの物がなかったとして、やはり帰路に梅田で望みの物を探すと思う。当たり前のように上本町に移動する友人にとことこと着いていきながら、僕はもう慣れ親しんだ地の住人ではなくなったことを感じる。
例えば、前職の人間とパフェを食べようと思うと会話の内容は大半が前職の話で、その内訳は大体7割が仕事の愚痴、残りの3割でその人の好きな人間と僕が好きだった人間と友人の話である。どの話も知っている人物が登場する知らない話で、僕はもう慣れ親しんだ職場の人間ではなくなったことを感じる。
僕は、彦根に住んでいた時の沿線が大好きだ。大阪に行くのと同じ所要時間で名古屋に行けるし、兵庫県の果てから滋賀の北まで一つの電車が走るというのは実家に居るときから浪漫があって好きだった。今の沿線も、田舎で何もないし本数もないと毒づきこそすれど景色が何より綺麗で大好きだ。晴れの日に往路は西側の窓際のお席、復路は明るい時間ならば東側の窓際に座るのが大好きだ。
僕は、なんだかんだこの地が好きだ。田畑と家が並ぶ街並みは長閑で穏やかだし、山から吹き下ろす風は強いがそれがなければ自転車を走らせるのは楽しいし、家と見まごうような食事処も値段は張るがたまの贅沢で行くとすごくおいしくて好きだ。
僕は、今の仕事がわりと好きだ。適正があるかと言われると難しいし、気質的にも馴染みづらいところはあるので何年続けるだろうかとは思うが、それでも今は大好きだ。優しい人に囲まれて、毎日新しい知識を手に入れて、昨日よりできることを増やそうと今日を暮らしている。
そもそも実家とはあまり気が合わず、過去もありある程度距離を取った方が僕の日常が平和になるのでこの地で生きている。家賃を払うと好きに暮らすのは難しいと判断したから住まいを決められない代わりに住む家をくれる会社に就職した。僕なりの考えがあってこの日常があってなんだかんだ気に入って暮らしている。
ただ、帰るたびに懐かしいような気が増すのを感じるのがどうしようもなく寂しい。歩きなれた少し歩けば欲しいものが容易く手にはいる土地はやはり便利でたまらなく恋しい。

慣れた地に帰って、親しい人に会っても僕の新しい日常を聞いてくれる人間はいないし、かつて慣れ親しんだ日常を味わって恋しくなって、2つの寂しさを抱えて新しい帰路に着く。それを誰にもわかってもらえないのが寂しくて結局最寄り駅に着くころには3つの寂しさを腕いっぱいに抱えていて、玄関では寂しさに押しつぶされている。重たい。

それがどうしても親しい人たちに会うのを億劫にさせている。
誘っておいて、誘ってもらったのに、気乗りしない様子を、だんだん隠すのが難しくなってきた。それが申し訳なくてさらに億劫になる。

謎の億劫さはここにあったのだと気づいてはや三日。僕を押しつぶしては知らない間にどこかに行っていた寂しさと同居し始めてからも三日。
気づきたくなかったと思いながら、じゃあどうすればいいのかと考えたくて今PCのキーボードをぱちぱちと叩いている。さぁ、どうやってこの寂しさと仲良くしてやろうか。


最後になるが、もし僕の親愛なる方々がこの文章に目を通しているとしたら。
どうか気にしないでほしい。散々例に挙げ寂しさを取り上げ不満を述べたような形になっているような気がしないでもないが、それ自体に不満は一切なくて、むしろ君たちの日常も聞いていたいし、何よりお話してくれるのが嬉しい。寂しさと折り合いをつけたり、一人暮らしをまともに成立させようと思うと時間が食われるから、用事もないのにあんまり頻繁に帰阪すると衣食住をまともにするのがものすごく大変になるくせに、たまの帰阪は用事と買い物を兼ねており一人で行きたかったりするので以前のようにコンスタントには誘えないが、だからこそ気軽に適当に話し相手に呼んでもらえたら、気軽に日常に加えてもらえたら、ものすごく有難い。

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