自分自身が何者かわからず、苦悩しているあなたへ
「私は透明な存在である、しかしその透明な存在が実在であることを認めていただきたい」
これは1997年に神戸で起きた小学生殺傷事件の犯人、酒鬼薔薇少年が犯行声明中で提示した言葉である。
この記事が出るやいなや、たくさんの若者から新聞社へ「私も『透明な存在』だ」という投書が殺到したのだという。
「透明な存在」は、自分の存在感の欠如に苦しみ、存在感の欠如に苦しむのだという。
かくいう私も、私という「透明な存在」に苦しみ、現在でも苦しんでいる。
この21年間ずっと、周りから受け入れられているのは、私の仮面であって私自身ではない。本当の私は決して受け入れられることがない。そう信じて厚い仮面を身にまとってきた。常に偽りの自分という意識にさいなまれてきた。
自己の「透明化」は日本を覆うシステムと日本人の欲求とのギャップに原因する。
高度経済成長期の日本人には「みんなが欲しがるものを欲しがる」という欲求の形があった。
モノに関して言えば、その時代その時代で「誰もが欲しがるもの」が存在してきた。
そのようなモノに対する価値観が、その時代に生きる日本人の人生観に深く影響していた。
みんなが行きたい高校・大学に進学し、みんなが入りたい会社に就職する。これが「良い」人生だと考えられてきた。
つまり、普遍的な「生きる意味」が存在した時代であった。
しかし、バブルが崩壊し、自己責任が強調されるようになって以降、普遍的な「生きる意味」は消滅し、一人ひとりのオーダーメイドな「生きる意味」が必要とされてきた。
日本人の欲求が「自分が本当に欲しいと思うものを欲しがる」という基本的な欲求に回帰したのだ。
これは一見、喜ばしいことのように思える。人から押し付けられた欲しいものより、自分で見つけた欲しいものの方が得たときの喜びが大きいのは誰も異論はないだろう。
しかし、現実には自分が欲しいものを見つけることに苦悩しているのだ。
これは、日本人一人ひとりが自己の欲求のありかを発見しなければいけない時代にも関わらず、他者の欲求を生きるという思考に自動的に誘導されてしまう日本社会で生きる日本人特有の苦悩なのである。
「いい高校(大学)に行きなさい」
「いい就職先を見つけなさい」
この言葉はいたるところで耳にする。
学校の授業では怒られないように、友達の前では嫌われないように自分の色を自主的に消していく。
「透明な存在」とは、他者から受け入れられるために「自己透明化」していくことによって生まれる。
先述したが、私自身「透明な存在」であり、それに苦しんできた張本人である。
これまで高校、大学、就活と歩んできたが、本当に私のしたいことだったのか自問することが多々ある。結論は未だに出ない。
わかっていることはただ1つ。「透明な存在」の自分という苦悩を乗り越えるためには私だけの「生きる意味」を見つけなければいけない。
これからの投稿ではどうやって「生きる意味」を見つけるのかについて考えて発信していこうと思う。
「透明な存在」から抜け出すために。
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