予防線に縛られている
異性とは、性別とは。
友だちとは
先輩/後輩とは
恋人とは
夫婦とは
私はキャラを切り替えることが苦手だ。
・
中学の頃、思春期真っ只中の私たちの話題はもっぱら恋愛だった。
各々思い人がいて、好きな人がいて当然な世界。
当時はそれが楽しくて、私もルックスがタイプの同級生(推し)を好きな人として祀りあげていた。
今思えば私は、相手のことなんて全然見えていなくて、好きな人がいる自分が好きだった。友だちの恋愛話を聞くために自分の恋愛話(仮)を切り売りすれば、自分もみんなと同じ土俵に立てている気がした。
そして、好きな人の好きな人にはなれない。1番になれないことが当たり前だった。私の推しには常に別の好きな人、ないしは彼女がいて、私が彼の隣に座る余地はなかった。
実際、バレンタインでは「友だちとしてよろしくね」と言われて玉砕していた。
いつしか私は「自分は物語のヒロインにはなれないんだ」という諦めから、自分自身を縛り付けるようになっていた。
自分の中にいるもう1人の私が、
「この顔でいて無駄に思い上がっちゃって恥ずかしい」
と言っているような気がして。
・
21歳のいま、私は以前ほど異性を崇拝することはなくなった。
それは大人になって恋愛に盲目的にならなくなったかもしれないし、恋愛どうこう気にしている暇がないほど多くの異性と接する機会が増えたからかもしれない。
とはいえ、一番大きいのは”誰かを恋愛的な目で特別視することへの違和感”かもしれない。
同性に見せるときと同じように、私はおふざけキャラないしはいじられキャラなどの仮面をかぶることでしか、動揺しないで行動することができないのだ。
ただ、それと同時に私は異性との距離感を履き違えるようになった。
ー男友達や同期に対しても全然下ネタを話せてしまうところや、そのことを生理現象だから、生物学的に全うなものだからと正当化してしまうところ。
ー他人から向けられた好意を厚意に変換して、それを無意識に相手に悟らせてしまうところ。
恋愛感情や異性に対するトキメキを無自覚にも抑制しながら。
自己肯定感の低さを盾に他人を遠ざけながら。
それでも言い寄られたいと相手に期待しながら。
だから、自分の内に秘めた人への好意に気づいたときにはもう遅いのだ。
先輩と付き合ったとき。
はじめて人に告白され付き合うことに舞い上がった反面、重いと思われることが怖くて、上手く「好き」を相手に見せることができなかった。
友人と都合のいい関係になってしまったとき。
相手からの「好き」を引き出すために、あなたのことが好きだと嘘をついた。偽りでもいいから愛を感じていたいと関係を望んだのに、いつしか互いの”都合の良さ”を”好意”と履き違えて遠ざけられてしまった。
あーあ。
ありのままに盲目的に、ひとを好きになりたい。
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