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【創作】或る生活・呪

 無知を恨む。
 さらに言えば、それは無知であることを気に病まずこれまで生活を続けてきた己が憎いのであって、無知であることそのものには何の罪もない。無知の知、とはソクラテスも大した言葉を残してくれたものだ。
 無知であると知ってなお開き直っている、それを「無知の恥」と言わずして何と言うのか。

 俺は教養を持たない。
 その日暮らしの毎日で、十分な教養を持った生活など望まない。ただ社会最底辺のさらに下、地獄のようなこの場所から脱却できればいい。平凡な幸せを夢想すること自体が愚かしいとさえ思っていた。
 目が覚めたら、まだ生きているのだと理解する。そうして、今日も一日生きていられるか考えることから生活が始まる。
 一寸先は闇、何が起こるかわからない。交通事故、心臓発作、殺人犯。物理的に起こり得るものはなんだって起こることを俺は知っている。
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 自分の着ているものを見下ろした。服、などと呼べる代物ではない。ほつれも破れもとうに通り越し、かろうじて身体に引っかかっている布というだけだった。
 ゴミ箱を漁ってありついた昨日の食事はまともな味がしなかった。もっとも、世に言う食事も味もとうに忘れてしまったが。せいぜいエサ、というのがお似合いだ。
 簡易な掘っ建て小屋の屋根を見つめる。正しくは、屋根だったもの、だ。大半が崩壊して空が見えている。よく持ちこたえた方だが、細い針金で繋がれた命は、次に少しでも雨がパラつけばもうお終いだろう。

 生きているだけ。ただ生きているだけなのに衣食住の一端すら保証されない。それどころか、近隣の住民が各々の手に箒や包丁、果てには丸太などを携えてやってくるのだ。
 いじめ、集団リンチ、そんな生易しいものではない。誰もが見て見ぬふり、無言の肯定のもとに行われる、地域全体からの迫害だ。

 勝手に生まれ、勝手に育ち、勝手に死んでいく。人の一生はみな多かれ少なかれそういうもの。差などない。
 ないはずだ。

 夜中にふと目を覚ます。息苦しさを感じるのだ。またか、と思いながら洗面台へ向かう。この一週間、同じことの繰り返しだ。
 眉根を寄せ、口を開く。喉奥の一部が占有され、息は掠れた音を立てた。
 道行く老人が唾を吐くように、高級車を乗り回す若者が噛み終えたガムを吐くように、洗面台に痰を吐く。
 何度繰り返しても、この瞬間は気持ち悪い。
 咳き込み、空気が壁に当たる音に耳を塞ぎたくなる。血を吐いて文豪の気分に浸れたら俺はどれほど幸せだっただろう。
 血ではない。赤くさらりとした液体よりも余程汚いものだった。自分であることを忘れさせず、他人の人生になぞらえることすらも許されなかった。
 汚点を水で濯ぎ、鏡を見る。
 窪んだ目は光を失い、痩けた頬は皮膚だけがたるんで骨を浮き彫りにしている。輪郭は脂ぎった髪に覆われ、顔中の至る所に皺を刻む。
 鏡越しでしか見えない女。醜いお前なんて見たくない。

 うんざりして、拳を強く叩きつけた。


*見出し画像はみんなのギャラリーより拝借しております。ありがとうございます。

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