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【短編小説】「あと、未来をひとつください」

1月の外気は夜勤明けの身体に痛いほど沁みる。
「今が寒さのピークですよ」と言わんばかりの年末の雰囲気が過ぎ去った年明けの街を歩いていると、なんだかんだ1、2月が一番寒いんだよなということを思い出させられる。

陽の光が昇りきった朝の空気の中、赤くなっているであろう鼻をマフラーにうずめて帰りの電車を待っていた。
漏れ出る白い息を何気なしに目で追っていると、向かいのホームに振袖や袴、スーツを着た若者が多いことに気が付く。
そうか、今日は成人の日だった。
仕事が土日祝日も関係ないシフト制なので、普段は曜日や祝日の感覚が薄くすっかり忘れていた。

艶やかな着物に身を包んだ若者たちは、普段着ることの無い衣装を褒めあったり、既に昔話(と言っても俺からすればたった2、3年なんて一瞬のことなのだが)に花を咲かせている様子だった。
若けぇなあなんて感じてしまうあたり、完全に俺もおっさんになったなと嫌でも感じて、自嘲にも似た笑いが込み上げてくる。

そんな思考ごと遮るようにホームに電車が進入してきた。
俺が乗るのは下り電車で、上りに比べれば大して混雑していない列車内は今日もいつもどおりの込み具合だった。
普段は目的の駅の改札に一番近い席を陣取るのだが、今日はその向かいの席に座った。
眩い新芽を見つめ続けるのは、なんとなく気が進まなかった。

駅員のアナウンスと、けたたましいサイレンとともに、ゆるやかに電車が走り出す。
せっかく向かいの席に座ったはずが既に手遅れだったようで、記憶の蓋を開けてしまった俺は自分の成人したての頃をぼんやり思い出していた。

それなりに就職への不安は感じてはいたものの、当時つるんでいた仲間との交流が楽しくて、そればかりに時間を費やした。
浴びるほど酒を飲んで潰れたり、先輩に連れていかれたスロットにはまって一日中煙草を片手に打ち続けていたり、今思い出せばなかなか楽しい時間を謳歌していたように思う。

座席に座ると同時にすぐスマホを手にとるのが癖になっていたが、そんなことを考えていたせいか、気付けば今日は窓から外の風景を眺めていた。

生まれ育って、一時離れることはあったものの、俺の故郷の街。
昔は寂しい街だったが、都市開発が始まってからというものこの街は大きく変わった。駅周辺には高いビルが経って、無駄にでかい音楽ホールも作られて、どんどん景色も変わっていった。昔から使っているこの電車も、新しいビルに遮られて陽の光が車内に届かなくなる時間も少し長くなった。
今日の成人式も、そんな無駄にでかいホールで行われるのだろう。

あの頃が一番人生で輝いていたかもしれない。
そんなことが一瞬頭をよぎって、俺は大きく息を吸い込み、低い天井に向かってわざと「ふぅ、」と声を出して吐き出した。
そんなこと考えてやるものか。俺は俺の意志で、選択で、今を生きている。
そう強がってはみたものの、それを裏付けるための根拠が今の俺にはあまりにも薄弱すぎた。

二十歳を過ぎてからというもの、周囲は徐々に就活ムードでいっぱいになって。当時の仲間達も金髪だった髪を黒く染め、エントリーシートとにらめっこをする日々が始まった。
たった二十数年の中で、どうして皆やりたいことがそんなに見つかるのだろう。
就職活動もうまくいかないまま俺はフリーターへの道へ進まざるを得なかった。徐々に仲間たちとのすれ違いも増えていき、気がつくともう馬鹿騒ぎをしたあの頃の面影は消えてなくなっていた。

* * *

自宅の最寄り駅について改札を抜け、いつものコンビニに向かった。
お馴染みの入店音が鳴ると同時に温かい空気に包まれ、全身で電気の有り難みを享受する。寒さに弱い俺にとってこの場所は家に帰るための息継ぎの場所だ。
煙草とお気に入りの缶コーヒー、サンドイッチをレジに持っていく。
一度は禁煙した煙草も、今は常にストックを常備するようになってしまった。
「お会計、480円になります。」
ちくしょう、10円玉があと一枚足りない。仕方ない、札で払うか。

コンビニを出たあと、家に向かって歩き出す。
大通りの交差点からは、新芽たちが会場へ向かっている様子がよく見えた。それを横目で一瞥しながら、俺はもう一つ気がかりなことについて考える。

今年の成人式には、娘も出席しているはずだ。

元気にしているだろうか、母親とは上手くやれているのだろうか、
どんな女性になっているのだろうか。
もう彼氏なんかもいたりして、もしかしたら結婚しているかもしれない。
いや、まだ二十歳だぞ。そんなの早すぎる。ちょっと許せない。

離婚したのは、娘が小学生になるかならないかの頃だった。
元妻は、フリーターとして働いていた職場の上司にあたる人で、最初は厳しい指導に苦手意識を抱いていたが自分の仕事に情熱をもって働く姿に尊敬の念を抱き、その気持ちが恋愛感情に変わるまでにそんなに時間はかからなかった。俺からの猛アピールの末、やっとそれが実ったときは嬉しくて「この人を俺の生涯にかけて守っていこう」と心に決めたことは今でも鮮明に覚えている。
そこからの俺はフリーターを脱却するために必死に働いた。働いて働いて、なんとか正社員として今の職を手にして。厳しい環境ではあったけれど、この人のためなら頑張れると、幸せな気持ちでいっぱいだった。子供も出来て順風満帆な生活だと思っていた。

しかしそんな気持ちを抱いていたのは、俺だけだった。
夜勤のある仕事に就いた俺は娘の誕生日すら一緒に祝ってやれなかった。それは元妻からすれば「家庭を顧みない父親」像そのものだったらしい。
親権はあっさりと母親に渡り、俺は俺との二人暮らしが始まった。

離婚してすぐの頃は何ヶ月かに一度娘に会う機会はあった。しかし成長するに連れて、何を話せばいいのか、どんなものが好みなのか次第に分からなくなり、どんどん会う勇気が無くなっていった。連絡は慎重にタイミングを見計らってしていたつもりだったが、それすら返ってこなくなってから俺はすっかり自信を無くしてしまった。

パパ、パパと笑う娘の顔を今でも思い出せるのに、俺の中の娘との時間はその頃のままで止まっている。
10年以上も経てば、全然違う姿になっているのなんて分かっているし、離婚する頃の元妻との関係性は最悪だったから、下手すれば俺は死んだことにでもなっているんじゃないだろうか。

でも通り過ぎていく新成人たちを眺めていると、ひと目でいいから娘の晴れ姿を見たかったと思ってしまう。

「成人おめでとう。」
それだけでも連絡をしてみるのはどうだろうか。
別に連絡を取るなと言われている訳ではないし、それくらいであれば娘にも違和感を与えないのではないか。
俺にしてはいい案を思いついたなとスマホを取り出そうとポケットに手を突っ込んで違和感を覚えた。
スマホが無い。
上着のポケット、ジーンズの尻ポケットにも手を突っ込んでみるが、無い。
焦ってその場に立ち止まりカバンやその他のポケットも弄ってみるがやはり無い。
そういえば、さっきのコンビニで札を出すのにスマホを手荷物台のうえに置かなかったか…しまった、そこだ。

何やってんだ、俺は。
今日はなんかいいことねぇなあ、と自分のそそっかしさに項垂れる。駅からしばらく来てしまったから、戻るのも少し億劫だが、無いと困るのは事実なので仕方なく来た道を引き返す。

やっとの思いで駅のそばの交差点まで戻ってきたとき、向かい側に振袖を着た若者が目に止まった。会場は明らかに逆方向のはずだが、友達と待ち合わせでもしているんだろうか。
綺麗にセットされた髪とその凛とした佇まいに、何故だか俺は見覚えがある気がした。
鮮やかな、それでいて落ち着いた緑色の振袖。スマホではなく少し雲の出ている空を見上げるその眼差し。

ああ、と俺はすぐに理解した。
それに反して身体は理性に追いついて居ないようで、心臓というポンプがじゅっ、じゅっと俺の身体に一気に血液を巡らせ、全身が熱を帯びる。コンビニ袋を持つ手にじんわりと汗が滲むのを感じた。

その目は俺の愛した人にそっくりだった。
小さい頃とは大きく姿は変わったけれど、それでもあの頃の面影は消えていないことを目の当たりして嬉しい気持ちと、俺がいなくてもここまで立派に育っていたことを知らされて切ない気持ちで胸がいっぱいになる。

ぴぽん。ぴぽん。

渡っていいですよと知らせる音が鼓膜を揺らす。
彼女がこちらに向かって歩いてくる。
歩き方も、年齢にしては上品な出で立ちも、すべて母譲りなところがさらに俺の心奥に突き刺さり、その場から動けないでいた。

もし神様がいるのなら、どうか、どうか少しだけ時を止めてはくれないだろうか。
彼女の姿をもう少しこの目に焼き付けさせてはくれないだろうか。
今まで心から神様を信じたことなどないことは反省します、なんならキリストでも仏でも誰でもいい、これからずっと信仰するから。

* * *

彼女が去ったあと、俺は何回信号を見送ったのだろう。
やっぱり神様なんていなくて、時間は止まらないままだった。
「どうして青信号なのに渡らないんだろう」と不思議そうな目でこちらを見ながら通り過ぎた彼女の背中を、ただ見送った。

おれは父親としては失格だったのだろう。彼女に何をしてやることも叶わなかった。ただ彼女は今も生きていて、自分の道を歩き出そうとしている新芽だ。それは、失った俺の希望を取り戻せた気がした瞬間になった。
最後の最後まで、俺は自分のことばかりだったな。
こんな父親だけれど、せめて願うことだけは許してほしい。

俺は何度目かの青信号でやっと交差点を渡り、コンビニに辿り着いた。
予想通り手荷物台のうえに俺のスマホは鎮座していて、それを回収したおれはコンビニ店員に注文する。

「すみません、未来をひとつください。」

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