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明日には忘れてしまうようなことって、なに?

"明日には忘れてしまうようなこと"を毎日綴ることを目標としている人がいるけれども、それって一体、どんなことなんだろう。


昔を思い出して「懐かしい」と感じるのは、その時感じていた気持ちを今は忘れてしまっているからだ。

毎日毎日、代わり映えしない日々を過ごしているような気がして嫌になるのに、いつか今日も「懐かしい」日々の一部になる。

幼少期に大仏様を指さして「じいちゃんだ」と言ったこととか、ばあちゃんが好きだった飴の銘柄とか、絶望しか感じていなかった思春期とか、思い通りにいかなかった進学と就職とか、全部何気ない日々の積み重ねなのに、気が付いたら思い出して「懐かしい」と感じる。

だからと言って、あの頃に戻りたいと思うことはほとんど無いし、明日死ぬよって言われたって特段後悔することは無い。
「懐かしい」日々に抱いていた感情に限りなく近い感情を思い出すことは出来ても、当時の感情そのものをそのまま取り戻すことは、出来ない。

そうなると、"明日には忘れてしまうようなこと"をこういった媒体で残しておくことに対して、私は、当時に限りなく近い感情を思い出すための手法の一つのようにも感じるし、当時の感情を取り戻すことなど出来ないのだから無駄な行為なのではないかという、まったく逆方向の二面性を感じる。

前者はまだいいとして後者に関しては、私を産み、生かしてくれた周囲の人が「懐かしいね、こんな時期もあったね」と感じるための、エゴでしか無いようにも感じてしまう。ここだけ切り取れば、客観的に見てなんとも卑屈で厭味ったらしい人間である。


冒頭で綴った、「"明日には忘れてしまうようなこと"を毎日綴る人」という部分に触れる。

そういった人は、毎日自分が残した感情をすべて振り返る時間を設けているのだろうか。もしそうなのだとしたら、途方もない作業だし、その文章を見てどんな気持ちになるのだろう。

「懐かしい」と感じさせるものたちは、思い出すと嬉しくなったり悲しくなったり別の感情を抱かせる、いわばトリガーのようなものだ。それによって今現在感じている感情が揺れ動いたりする。それは理解しているつもりだ。

だがその辺の想像力というか、共感性というか、そういった感情がおそらく私は著しく欠如している。

私は前者と後者、一体どちらなのだろう。
自分のことになると、こうして何も分からなくなるから、少し掘り下げて考えてみようと思う。


人間はどんな人生を歩んでも、その軌跡や功績が例えスティーブ・ジョブズ並みに立派なものだとしても、廃人のような人生だったとしても、いつか終わりが来るし、その終わりからは逃れられない。

私は毎朝差し込む太陽の光に自然と暖かい気持ちになるし、何か出来た日は嬉しいし、何も出来なかった日や失敗してしまった日は悲しい気持ちになる。

私の"幸せ"というのは、そういうものだ。

何かを残したいとか、やってみたいとか、そういった感情は別に無くても生きていける。煙草やパチンコと同じ嗜好品や娯楽なのだ。

ただきっと、そういった嗜好品や娯楽から学ぶこともきっとあって、それを突き詰めていくことによって個性が生まれ、人それぞれの考え方や生き方が生まれる。

ただ、それを毎日書き記すことによって、当時に限りなく近い感情を思い出すことが出来たり、何かが変わるのだろうか。

いや、あるのか。

当時は許せなかったことを、許せるようになった。
当時言われた時には理解出来なかった言葉が、今思い出して漸く理解出来た。

その瞬間がやってきたとき初めて、思い出すことで得られるものもあるのかもしれない。

まあ、そう考えると日々思うことを綴り、残すことは意味があるのかもしれない。


ただ、"明日には忘れてしまうようなこと"が一体どんなことなのかが、まだあまり理解出来ていないのだけれど。

一体明日の私は、何を覚えていて、何を忘れてしまうんだろう。

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