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海と記憶と願いごと


最後に海で遊んだのは、もう何年前だろう。

社会人になってからは、いや、高校生の頃も…泳いで遊んだことはあっただろうか。

浜辺で服が濡れないように控えめに遊んだり、眺めに行ったりしたことはあった。けれども、波を頭から被って慌てて引き返したり、日焼け跡なんかを作ったりしたのはもう十数年ぶりだ。

今日、海へ出かけた。
親友夫婦と、5歳の女の子、2歳の男の子と一緒に。

子供より大はしゃぎしてしまった。楽しかった。
帰ってきた自分がいつもより疲れていることを感じる。
だが、もう眠ってしまおうとベッドで横になっているときも、ずっと今日のことが頭の中で反芻していた。海って意外と悪くないな、なんて。

そんな今日のことをずっと考えていたら、ひとつふたつ、懐かしいような、それでいて叶えたいような願いごとが生まれた。




海の記憶


私の記憶の中の海は、「冷たくて怖い」ものだった。

楽しそうな方へ行こうとすればするほど、冷々たる水が私の背筋をピリピリさせた。そのうえどんどん深くなってゆく。

まるで宝石のように着飾った水面で私たち人間をおびき寄せ、近寄って来た人間を静かに連れ去ってしまう天災が、まさに悪魔が、当たり前のように世界に鎮座していた。泳ぎは出来ないわけではないけれど得意でもない私にとっては、海で泳ぐことはただ恐怖でしかなかった。


ただ、波打ち際で少し遊んだり眺めたりするだけなら話は別だ。
こちらに害がない、安全な場合の海は好きだ。
実際、今日久々に目にした海は太陽の光が反射してキラキラしていて、道すがら眺めた景色に心が踊った。

出発前は「どうせ子供たちと遊ぶだけだから」と思っていたけれど、海を見てからテンションが上がってしまった私と親友は現地で水着探しに奮闘した始末だ。

結局水着は見つからなかったのだけれど、到着して子供たちに水着を着せて浮き輪を持たせ、走り出したとき「あれ、私どうしてこんなに楽しいんだろう。海、嫌いだったはずなのに」と違和感を覚えた。

ただ今日私は、そんなことを気にする間もなく、子供の手を引いて水へ飛び込んでいた。


過去、今、未来


5歳児と2歳児が海に飛び込んだのは、結局2、3回だけだった。

最終的に「こわい、ママ行かないで。〇〇(私の名前)も行かないで」とまあ大泣きして、海とは真反対に大人の手を最大限引っ張った。
私が親友の旦那(旦那は私の幼馴染みだ)とで沖近くまで波を楽しみに行っている間も、私と親友旦那が流されたのではないかと心配したのか、ずっと名前を叫び倒していたらしい。


今になって思えば不思議で仕方がないのだけれど、私はそんな子供たちに「海こわくないよ、楽しいよ」と声を掛け続けていた。
昔の私も同じように海を嫌っていたはずなのに、だ。


大人から見た海と、子供の感じる海とでは圧倒的に差がある。
体格差、危険かどうかの判断力、精神的に感じる海への漠然とした恐怖。

なんの配慮もせずに、「海はたのしいもの」だと子供たちに押し付けたことを、今少しだけ反省している。

もしかしたら今日私は子供たちに「海は冷たくて怖い」という私が長年拭えなかった恐怖感を植え付けた張本人になってしまったのかもしれないから。

ただ、あくまで私がこれを書き残す目的は「トラウマ植え付けちゃったかも、可哀想なことしたかな」という自己嫌悪をつらつら書き連ねることではない。
だからと言って今日の私の行動を正当化するような言い訳をしたいわけでもない。


願い


巨大な"よく知らないもの"を目の前にして怖気づくのは、人間として極めて普通の反応だ。怖くて当たり前なのだ。

でもいつの日か、海はたのしいものなんだと感じられる日を、なんならそれが「え?当たりすぎん?」と感じるようになった姿を見たい、そう思っているだけ。

たくさんの"よく知らないもの"を知って、経験して、成長して。
それがいつの間にか、"よく知らないもの"では無くなっていて、もちろんそれは海だけでは無いのだけれど、5歳と2歳には冷たくて怖かったものが、今後何かのきっかけで別のポジティブな価値観に昇華されていく姿を私は黙って見ていたいのだと思う。

昇華する際には、自分で気が付くときもあれば、周囲の環境も影響するだろう。私のように、一つの事柄を怖いものだと自ら敬遠して遠ざけていれば価値観の変化が起こるのには時間を要する。なんなら、その価値観はもしかしたら一生変わらないかもしれない。

それでも私は少なからず20数年間生きてきて、変わった価値観がある。
同じように、たくさんのことを見たり聞いたり経験したりして、そんな自分のアイデンティティを見出していく様子をこれからも見たい。


数年前まで意思疎通も取れなかった赤ん坊が、こんなに言葉を話してワガママを貫き通していること自体が私にとって嬉しいことなのだと、今日は改めて再確認した日であった。

もちろん、大事な親友と幼馴染みの子供だからという色眼鏡もあるかもしれないけれど、おそらく単純に、どんな風に成長していくのか、どんな価値観を持つのか、見てみたい。但し、これは単純な私の探究心に過ぎない。


これは、近々生まれる私の甥についても同様のことが言える。

まだこの世に誕生してもいないけれど、甥が生まれてもこの探究心が終わることは無いだろうと、現段階の私はそう考えている。もしかしたら、さらにこの探究心が強まるかもしれない。


話はだいぶ飛躍してしまったが、とにかく私は彼ら、彼女らがどんな選択をしようとも、どんな価値観を持とうとも、豊かな感受性を失わずに生きていられることを願っている。

これが私の今日生まれた願いごとだ。

そして慕ってくれる子供たちと、信頼してくれている親友たちに恥じない生き方をしたい。そう考えた日の話。




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