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「変だね」と言われて喜んでいたあの人の話

シトシトと雨が降る東京。
外出するか迷ったけど気分が上がるまでは家で楽しむことにする。

私って変なの?

私は時々「意外と変だよね」と言われる。
この時どういう気持ちになるかというと2パターンに分かれる。そして、それはある言葉がついているかどうかで決まる。

意外と変だよね
「意外と」がついたもの、これはいいのよ◎。寧ろ、私はこの人にそこまで素を見せることができているんだと実感するきっかけになる。そして、相手が私の新たな一面を見つけてくれたこと・それくらい興味を持ってもらえていることに嬉しさを感じる。

だけど、唐突な「変だよね」は結構傷つく。傷つくというより焦るの方が表現としてはあっているかもしれない。

カメレオンみたいな私

私は自分のことをカメレオンみたいだと思う。それはどういうことかというと、いるグループによって顔が結構違うのだ。

クラスの中では頼られる学級委員長キャラ。
仲の良い友達の中ではポンコツキャラ。
部活ではお母さんキャラ。
仲の良い男の子にはお姉さんキャラ。

ざっと大まかにいうとこんな感じ、でも実際は「〇〇には□□と考え、一致団結する場でも〜〜〜という考えの元、みんなをまとめる学級委員長キャラ」みたいに説明付きのようなものだ。大体は全体のバランスを見て「今この要素足りていないな」とか「みんなからこの役割を求められているんだろうな」と先生とか上の人から言われていなくても何となく察して役に没頭した。

でも、我が家では「永遠のアイドル・最強の末っ子」キャラなのである。
時々同級生のお母さんから「チルちゃんってお母さんみたい!」と言われた母が非常に驚き不思議がっていたのを今でも覚えている。姉たちも「嘘だーーーー!」と言う。これは結構今もだけど。

思春期はそれが1番の悩みだった

最初は特段害がなかったものの、思春期に入ると「自分とは何か」を考える上で非常に高い壁であった。

本当の私ってどこにいる時の私なんだろう。
友達がよく「あの人裏表あるよね」「裏の顔怖そう」とか言うけれど、私には裏表の2面だけじゃない。軽く7〜8面は持っている気がするけど、そんなこと言ったら怖いを超えて気持ち悪がられちゃうのかな。
みんな基本1面、多くて2面なのかな。

そういうことを考えていたら、中学3年間が過ぎ去ったと感じるほどずっと考えていた。でも心理学の本を読んで、それはペルソナであることを知った。

ペルソナは夢の中では人格化されず、一般に衣装などの自分の外的側面で表されることが多い。しかし、仮面を被った自分もありのままの自分と仮定すれば、それらは全て、我である。

Wikipedia「ペルソナ(心理学)」より

そう、全て私なの!どれが表、裏とかないんだよ!衣装なの、仮面なの!
良かった〜。自分がおかしいわけではないんだ。
でも結局、仮面をつけている自分本体はどういう人間なのか。
その点はまだ分からないな。

こう思った。でも、高校入学前に気づけたので、高校での人間関係やその中での立ち振る舞いに関しては、以前に比べて悩まずに済んだ。こんな風に仮面が変わるのはおかしい事ではないんだと。

しかし、そんな私にとって唐突の「変だよね」という言葉はどんなことを意味するのか。それらを言われた私は「もしかしてカメレオンの如く擬態できていなかったのではないか?私は求められている、この場に不足している役を全うできておらず、悪目立ちしていたのではないか?」と焦り、擬態生物が敵に見つかった時のようにドキッとするのだ。

だから、徐々に関係を深めていった相手からの「変」という評価は良いが、そこまでかなという人から「変だ」と言われると非常に焦る(時には洞察力すごい人だったからという理由もあるけどね苦笑)

「変な人」が褒め言葉

そう思いながら生きてきたが「変な人」と言われて嬉しがる人に出会った。
私は最後までその人のことを理解しきれなかった。
いや、人間誰しもが他人であり、思い計ることはできても理解することは家族でさえも困難である。しかし、どうしてもその人のことは不思議だった。

第3者を紹介するときに必ず出てくる

その人はよく友達の話をするとき「アイツは変な奴で〜」から始まる。私にとって「変」はそんなに良い意味じゃないから、毎度「それってどういう意味?」と突っかかってしまう。

具体的な「変」エピソードを求めて聞いてみると、そこまで変じゃないように感じる笑。このズレも理解しきれなかった理由ではありそうだが、そんなに変かな?そんなに変じゃないと私は思うから「アイツは変な奴」じゃなくて「面白い奴がいるんだけど〜」に言い換えたら良いんじゃないかと、烏滸がましいが1度だけアドバイスをしたことがある。

しかし、ある日一緒にいて、シンプルに「この人変わっているな」と思う事があった。私の中では「意外と変だよね」は良いと捉えているため、その人に言ってみた。「意外と変わってるよね」。

そしたら、びっくりするくらい喜んでいた。
その時に「あ、この人にとって『変』って最高の褒め言葉なんだ」と思った。そう、過去私がかけたアドバイスはお節介以外の何者でもなかったのだ。というより響かなすぎて覚えていなさそうだった。

私はその人が喜ぶのであれば、その人に1番あった褒め言葉をかけるのが礼儀というかマナーというか、気遣いでもあると思うので、文脈的に適合性が取れるのであれば「変わっているね」と言うようにした。
毎度毎度とても喜んでいた。

なんでこの人はこう考えるのだろう

物事は表裏一体、どんなことにも良い面・悪い面がある。
私の良いところは、人間観察をしてその人に合った過ごし方や言葉をかける事ができる、とにかく相手は居心地がいいなと思ってもらうように最善を尽くす。しかし、悪いところは人間観察の度を超えた分析を勝手にしちゃうこと。

いやだよね。多分ね。
私は割と「そう見えてるんだ〜」と発見・学び・今後への反省として思えるけど、多分嫌だと感じる人が多いんだろうな。でも、勝手に分析やります。

「天才と変人は紙一重」

なんで「変わっている」がその人にとって褒め言葉になったのだろう。
そう考えた時に「天才と変人は紙一重」という言葉が頭に浮かんだ。これは何かヒントになりそう。

その人は優秀な人で努力家で、優秀な大学に通っていた。その後内定・就職した先でも同じように優秀な人たちが沢山集まっているんだと思う。でも、18歳からたくさんの天才を目の当たりにしてきたんだろうな、と話を聞いていて思った。

その人なりの葛藤

人には人の事情がある。だから、本人には言わない。けれども考えたことは日記のように残したいからnoteに綴らせてもらうのはどうか許してほしい。

私はその人の話を聞いて「努力の天才型」なんだなと思った。正直言って学歴というか学びの面からいうと地方と都市の格差は凄まじいと感じる。それは私も実感した。その人は同じ地方ではあったが一生懸命努力して第一志望校への切符を勝ち取ったのだ。だけど、自分の周りには「真の天才」が沢山いる。もちろんそういう方も努力はされてきたのだと思うが、映像記憶などの能力があり大学合格までの過程に違いが出てくる人たちがいると思うのだ。

その人は、そんな能力・才能を持つ人がごまんといる環境に身を置いたときに「天才」という言葉に何かしらの感情を抱いたのではないだろうか。一種の憧れのような。私からすると、その人は十分素敵で、他人と比べる必要なんてないと思うがそういう環境に身を置いたらそうなってしまうのかもしれない。

紙一重って「≒(ニアイコール)」のようなものだと思う。
だから、その人にとって「変わっている」という言葉は自分を嬉しくさせたのではないだろうか。

こんなこと考えていても、その人とは疎遠になったから会わないだろうし、こんな風に思っていたことを知る由もないだろう。でも、どこかで幸せに暮らせていたら良いなと思う。
ごめんね、知らないところで勝手に話題にして。そして、がんばってね。
ただそれだけだ。

というより、人それぞれ褒め言葉って違うよねっていう話。ここまでたらたら分析してつらつら書いててこの結論?って感じだけど。


あともう1個書きたいのがあるので、コーヒーブレイク挟んでから書こうかな。もう外出はしない。家でnoteを書くぞ。

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