日記帳記念日と呼ぼうかな

文章を作るのがとても下手になったなと感じる。
元々得意ではなかったかもしれないけど、昔はもう少し書けたはずだ。先日古いパソコンを開いたとき、学生時代のレポートを見て本当に驚いた。自分がこんなに文を書けたのかと。今では絶対無理だと思った。

先ほど、同僚が書いた会社のブログを読んだ。
内容も流れもとても良くて、私もこんな風に書けるようになりたいと思った。

なぜこんなにも苦手になったのだろう。
心当たりは色々ある。
単純に学生を卒業して書く機会が減ったこと。
一人暮らしになり、思考が巡る引き金だった家庭環境から離れたこと。平和ボケ。
人と話す機会が減ったこと。
ストレートに書くのが恥ずかしくて、抽象的な表現に逃げる癖もついてしまった。
でも一番は、紙の日記をやめてしまったことかもしれないと思う。

昔は必ず日記用のノートがあって、毎日ではないけれど、何か感じたり考えたりしたときはそこに書いていた。ページを開くと過去のことも目に入るから、その頃はわりと色々なことが心に焼き付いていたように思う。

だけど、時間が経って見返すとなんだか恥ずかしくなってたまらなかった。だから昔の日記帳は全然残っていない。捨ててしまった。

それでも、あとで捨てるにしても、書いていた時期はあった。本当にやめてしまったのは多分、約2年前、なかなか深刻に病んでしまったときだ。

病んでなくたって、どんな不運でいつ死ぬかわからない。それは昔からずっと思ってきたことだったけれど、病んだことでより一層リアルになった。死んだら遺品整理をされるだろう。絶対に日記なんて見つかりたくない。もう紙の日記はいっときでも残さないことにしようと決めて、それ以来、感じたことはスマホのメモアプリに書き、さらにパスワードを設定している。

でも、それだとつい断片的になる。書くばかりであまり見返さない。文字に調子が滲むこともない。
やっぱり紙の日記を書こう。仕事の性質的にも、言葉を磨かなければならないのだ。

もし準備もなく死んじゃって見られたら嫌だなと思う気持ちは変わらないけれど。

でも、死んでからの恥ずかしさよりも生きてる時間の中身を大切にしなければ。

そう思って、その瞬間驚いた。
自分がそんなことを思うなんて。
「生きてる時間の中身」なんて、そんな言葉が前向きな意味を持って自分の中から出てくるなんて。
ちょっと信じられないくらい衝撃で、サラダ記念日みたいに何か名前をつけたいと思った。
嬉しくて先の言葉を何度も反芻してしまう。

きっかけのブログを書いた彼女に、来週お礼を言おう。

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