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「負ける」のめちゃくちゃ深い意義(お役に立つということ)

僕はテニスの試合に出たりするのだけど、
相手がいることなので、思ったように勝ったりとかは、やはりなかなかできないのです。

ある時、ダブルスでペアを組んだ友人が、
トーナメントの敗戦後に落ち込んでいる僕に、こんなことを言ってくれた。

「僕らが負けたから、彼らは勝つことができたんですよ。
 僕らがいたから、彼らは勝てたんです。」

なるほどなぁ。
哲学的だなぁ。
と、感心して、時間が経った今でも心に残っている。

               ※

やはり、人は他人と比べたり、序列を作ったり、競争や比較みたいなものは存在する。
そして、やはり勝ちたい、上に行きたいという気持ちは、とても真っ当で良いことだと思う。

同時に僕らは負けることが怖いし、実際に負けると落ち込むことも多い。
でも、勝てなかったとしても、それほど気にすることもなく、むしろ誇っても良いんじゃないか?と思う。

なぜなら、お役立ち具合では、負けることの方が優っているのでは?とさえ、考えるられそうな気がするからだ。

極端に自然界に例をふると、
イワシがいなかったら、海の生物はまったく成り立たない。
イワシが食べられることで他の魚は生きることできて、増えて、海が豊かになる。
逆に、イワシを食べる他の種類の魚がちょっと減っても、イワシほど生態系のダメージはないかもしれない。

誰かが負けることによって(自然界では食べられる。厳しいけど)、世界は成り立っている。
つまりは、もうただいるだけで、存在そのものが世界の役に大きく立っているのだ。

そして、負けることで(命さえとられられなければ)、僕らはなにかの成長を得ているんだと思う。

負けて自分が無価値と思うことは、自分が勝手にやっていることだ。
勝った相手だって、自分が一生懸命打ち負かした相手が、無価値ではなく強大だった方が嬉しいだろう。

               ※

ということで、勝てなくても、うまくいかなくても、落ち込んだりせず、俺が勝たせてやったんだぜ(俺が育てたんだぜ)くらいに考えられたら、気軽にチャレンジできて、もっと日々が楽しくなりそうと思った午後でした。

読んでくださり、ありがとうございます。
今日も、無理なく良い気分で過ごしましょう。

こんなに練習しているのに、テニスはやっぱり難しい。

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