愛犬家
モシッ
帰宅し鍵を閉めた瞬間耳に障る、人間の声に似た低音が目前の暗闇から鳴って身体を硬くした。飼い犬(以下リチャードと名前で記す)以外は誰もいないはずの空間である。泥棒。不審者。強姦魔。質素な暮らしの独身男性(プラス1匹)の安マンションに?肉声にしては随分とザラついたその音に更なる疑念と不安が腹に広がるのを感じる。宇宙人。幽霊。そうだ、この盆は墓参りに行かなかった。化けで出る元気のあるような婆さんだっただろうか。あらゆる可能性を考慮した末、玄関に置いてあったプラスチック製の靴べらを手にとってから、電気をつけることに決定した。もちろん靴べらなんぞではなく金属バットかなにか攻撃性の高いもののほうが望ましいに決まっているが、無かった。
電気をつけ靴べらを顔の前に構えながら(滑稽な姿だか当然命の方が大事である。靴べらで命が守れるかどうかはさておき)一歩ずつ歩みを進める。玄関から全体を見渡せるほど狭い部屋の中には誰もいないようにみえた。窓から逃げたか?と思うも鍵も閉まっている。奴(?)は風呂場にいるのだろうか。リチャードが足元にじゃれついてくる。番犬としての役割を果たすのに向いているとは言い難いらしい。風呂場へ突入する前に台所で新たな武器であるところの包丁を手にしたところで(これはこれで滑稽な風景である)再びあの音声がした。足元から。
「モシ」
「リチャード、お前」
「メシヲイタダキタク……」
「お前……」
「ワタシ ダッテ ナニ ガ ナニヤラ デ ゴザイマスネ。トツゼン ダンナ ガ[聞き取り不可。"犬語"を指す言葉だと思われる]デ ハナシ ハジメタ ン デスカラ マッタクモッテ コトバ ニ ナリマセン」(リチャードによる摩訶不思議な日本語を強調するためにカタカナ表記をしたが、今後は通常通りに表記する。)
餌を腹に収めると、未だに呆然としている私を心配しているようにみえる表情をしてリチャードは語り出した。実際は飼い犬が喋っている状況よりも、自分の頭の状態を憂慮しているというのが本心だった。突然におかしくなってしまったのだろうか。クスリどころか酒も煙草もやってないというのに!本当に気が狂ってしまったのだとしたら、一生この狂気から抜け出せないということなのだろうか。明日は朝一番で病院に行きたいと思う。しかし会社へ行かねばならぬ。悪いのはこんな社会である。世間である。
「旦那って呼ばないでくれよ」
「どういう意味でございましょう。["犬語"を指すと思われる言葉]には二人称は一つしかありませんからね。もしかして旦那にはあっしの話が[聞き取り不可。"人間語"を指す言葉だと思われる]で聞き取られているんでありましょうか」
「俺の言葉が犬語に翻訳されて聞こえてるわけ?ワンワンみたいな?」
「[聞き取り不可。前のセリフの「ワンワン」を真似した音と思われる]っていうよりかは[聞き取り不可]って感じでございましょうかね。やっと旦那が喋れるようになったんだと、いい歳して感動しちまいましたよ」
「問題は俺の言語野が犬になってしまったのか、何か目に見えない翻訳機が俺たちの間にあるのかってことだよ」
「はっはっは。面白いことを仰りますな!言語野が犬に!あはは」
「そういうことじゃないよ、馬鹿野郎」
明日の朝、まず会社に行って同僚へ挨拶する。もし怪訝な顔をされたら言語野が犬になってしまったということだ。人間からは喋る言葉すべてが["ワンワン"という犬の鳴き声の人間による真似を犬が真似していると思われる音声]としか聞こえなくなってしまったということだ。脳外科医へ行こう。駄目だ、["犬語"を指す言葉]でしか病状が説明できない。動物病院へ行こう。そうじゃなければ(今となってはこちらの方が望ましい)疲れている可能性がある。精神科医へ。あるいは休暇を。
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