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短編

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#恋愛小説

本棚と抜け殻 後編

以上の記述は僕がだらだらと本の内容を繋げて書いたものだが、実際は日記と化学実験のレポートの間のような文体と形式で書かれている。「彼女」を破滅させる過程でどのような薬をどの程度の量与えたか、「彼女」に診察室や、診察室の外でそれぞれどんな類の言葉をかけたか、つまびらかに、必要量書かれている。実験レポートと同じで、読んだ人に再現ができる(かの)ように書かれているのだ。それでもやはり、本の内容が全て真実だ

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本棚と抜け殻 中編

実際にはこの小説がどこまで事実に即して書かれているのかわからない。けれども「彼女」の身体的特徴、例えば左右の耳のピアスホールの個数から、親密な関係の人間にしか知りようがない場所にある黒子の配置に至るまで、これらは完全にアリスのものと一致していた。一方で美化した記憶と妄想の、ギリギリの境界を縫うような場面もところどころ存在する。創造物にしては現実に近すぎる。日記にしては装飾が過ぎる。とにかくこの本の

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本棚と抜け殻 前編

アリスは酒を好まず、電子機器の扱いに疎い。料理ができない。生き物や植物を死なせてしまう。いつ抱きしめても匂いがしない。僕が働きに出ている間のことはよくわからないが、知っている限りでは食事中でも入浴中でも、絶えず何らかの本を読んでいた。海外作家の小説から流行りの自己啓発本まで、あらゆる種類のものを読むようだった。彼女の纏う空気には俗っぽさや生活感の影がなく、その分だけ人間味、あるいは現実感が薄かった

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iについて

一般的な単行本よりはひと回り小さいその本を眺める。薄い水色の表紙は撫でると硬く、ひんやりとしている。自費出版なので装丁にもこだわることができるのだろう。タイトルが金色の文字で入っている。著者名は英小文字の"i"一文字のみ。本名が"愛"なのだ。
「"i"ってやっぱり虚しいもの?」
初対面で僕が理系だと知ったiは尋ねた。虚数iと一般名詞の愛と、そして自分の名前をかけたジョークだったのだろう。
「たとえ

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