累積KJ法 R2ラウンド 「人間味ある矛盾を芸術や政治経済へ昇華させるには?」(第1章3節)/大塚
この第1章「陰徳と転生」をまとめる。
生業を地道に営みつつ、分を超えた利益を進んで社会に還元してきた日本人は、仏教的な解脱よりも来世への生まれ変わりを願った。(つまり陰徳を積みつつ転生を願っていたということである。しかし、現代では相互扶助的な社会還元の試みが衰退してしまっている。それには、貨幣の信頼性が増していることが、逆説的にであるが原因の一つになっている。日本は他の国家同様、中央銀行が貨幣を集権的に発行するシステムであり、人々はお金の価値が低下するとは思いもよらず、稼いだお金を預金口座にせっせと貯め込むことを好む。それによってお金の流動性は落ちてしまう。確かに、銀行に預けることは、タンス貯金などに比べれば市場にお金が流れることにつながる。しかし銀行員の貸付業務を介したものであり、預金者が直接社会へ還元しているという意識は生まれにくい。また株式投資やFX、仮想通貨など現代の投資は、自分の資産を殖やすことに一生懸命で、お金のやり取りは打算的なものに終始してしまう。)
(他人を思いやったお金の使い方がなされないことで、ギリシア語のエコノミーの語源で重要視された、経済活動にともなう身体性や感情の交換も行われず、人心は落ち込んでしまう。それによって社会の活力は奪われてしまい、遂には国内経済が破滅し口座に溜め込んだ貨幣の価値を裏付ける機関も消滅し、お金はただの紙くずと化してしまう。「悪貨は良貨を駆逐する」ということわざがあるが、「悪貨が存在せず良貨のみでも経済は破綻する」のであり「悪貨と良貨のバランス」が必要である。それは複数の貨幣の存在を認めることであり、江戸時代には藩やお寺、私人が独自に発行した紙幣が無数にあった。現代でも、日本円以外に、外国通貨や株、仮想通貨、地域通貨など、様々なお金は存在している。それら多種類の貨幣を考慮に入れてお金を相対的に捉える意識が、現代の日本人にはあまり無い。それがお金の社会流通、社会還元を阻んでいる一因でもある。)
(そもそも、海外のように資金を育てて殖やすという現代的な投資の考え方は、日本文化の基層へ密接に結び付いていない。地方の酒屋の大将や、庄内藩の大商人であった本間光丘、錚々たるアジア革命家のスポンサーであった杉山茂丸など、昔から資産を他へ投資してきた日本人は、短期的な利益もしくは確実な見返りは求めておらず、ある意味で博打的な活動であった。講の仕組みについても、近所の相互扶助、もしくは宝くじのような集まりで、お金を殖やす意図はあまりなかった。そこには、生活と労働とが深く関わり合った、日本独特の包括的エコシステム思想が関わっている。畑に鍬を振うことが仏道修行につながっているように、日常の何気ない労働が精神的な理想実現へと地続きになっており、日々の稼ぎも自分自らの力で手に入れたというよりも、周りの環境や人々のお陰で懐に入ってきたと考える。そう考えると、個人と他人の資産は究極的に分離不可能なものとされ、利己的に資金を投資して殖やしたとしてもその利益は結局他人の財産と不可分に混ざり合い、それを独り占めする筋合いはないように結論される。その点で言うと、アメリカの投資クラブのような地域に根付いたコミュニティが集団で株式投資を行うことが日本に相性が良いと思われ、国内法制度の設置が望まれる。)
(現代日本人は、そうした根本的な投資の姿勢を考えることができないまま、日本政府に老後2,000万円を貯蓄しろと脅され、日本独自の仕組みではない積み立てNISAやiDeCoに勧誘されている。そのような制度を活用すれば、長期的な資産形成を図ることができるかもしれないが、日本文化や日々の生活との関連性は薄いであろう。そこには気っ風の良い援助や講などに日本の昔からの投資に見られる対面でのお金のやり取りは介在せず、さらにアメリカの投資クラブのようなチームでの勉強や自ら考えての試行錯誤もなく、非効率的な無駄が削ぎ落とされた株式市場の株価の変化のみがある。5Gなどネットの高速化やAIによる自動化、スマート家電によるIoT化などによって、世界は急速に進展しているように見えるが、そこでは数値化できず目に見えない一種の精神的、神秘的な存在が切り落とされている。そのような論理的で効率的な世界はある面では社会を発展させるかもしれないが、行き過ぎると人々が感情や情愛を頼りに団結することができなくなり、個人主義が極まって生きる空虚さに悩まされ、魂は行き場を失い彷徨する。トランプなどのポピュリズム政治やイスラム国、ネット右翼などの台頭は、効率化する現代への反動なのかもしれない。)
(そして神秘が科学的に説明された現代では、仏教などの来世思想も説得力を失ってきている。頼母子講などの名前にも表れているように、日本の相互扶助的な投資にはもともと宗教的色合いが多分に含まれていた。来世で恵まれた人生に生まれ変われるようにと、お金を喜捨して徳を積んでいたのである。その来世の存在自体が疑われ、お金も利己的な目的でしか使われなくなると、お金を他人へ寄付する道徳的な動機づけが無くなってしまう。それはこれまで見てきたような貨幣の流動を阻害している大きな要因の一つと考えられる。来世への希望が断ち切られたのであれば、インドの原始仏教が究極的に求めたように、お金をこの世に執着してしまう邪魔者だと捨て去って、解脱への修行に心身を捧げる道があったかもしれないが、そういった抽象的な理論的哲学は日本人の肌に馴染まなかった。そうして神秘を科学的に否定されつつ、しかし形而上学的な宗教論理を確固として持たない彼らは、葛藤に苦しむことになる。)
(その矛盾から、世界に誇るものづくりの技術やアニメなどのエンターテインメントなどを生み出してきた日本であったが、現代ではその分野での権威も弱まっている。社会の不均衡や歪みの隙間に生まれる神秘を大切にしてきた民族なのに、SDGsやフェミニズムなど諸外国のポリティカルコレクトネス化へ追従していることが、その失墜の原因の一つに思われる。そういった一見して平等に見える社会では、コロナ禍の世界がそうであるように、人々の具体的な「命」が第一に取り扱われる。命より大切なものはないとして、社会や経済、文化が犠牲になる。それは確かに正論ではあるし、死後の世界を科学的に解明できない現状では、倫理的思考が帰結する当然の制約と言える。例えばお国のために命を犠牲にする特攻隊を生み出した大日本帝国は、現状の「命を大事に」世界では人非道的だと国連に糾弾される類のものだ。ただ、論理的な考えだけでは視野が矮小化されてしまう危険もあろう。コロナへの対応にしても、家に篭ってウイルスの猛威が過ぎ去るのをじっと待つよりも、むしろ開き直って犠牲も厭わない全人類対新型ウイルスの戦争と考えれば地球人が一つにまとまるきっかけになるかもしれない。それは後続する人間世代の対宇宙戦争の前哨戦としての準備ともなる。)
(こうした現代人の「命より大切なものはない」といった思考に表れているのは、自分の人生を超えた超長期的な時間感覚を失っているということである。昔の日本人だってもちろん自分の命を大切に生きていたであろうが、来世での生まれ変わりという一種のバックアップを信じていたし、地縁を大切にして次世代へ有形無形の投資を行ってきたのが、現代との違いである。そのように来世信仰を失い、地縁も薄れていった今の日本人は、自分の人生の繁栄といった現世利益ばかりを追い求めている。そして、陰徳と転生といった価値観は、心の奥底には眠っているかもしれないが、表面上は忘れ去られてしまった。)
次回は、第2章「匿名の功罪」に続きます。
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