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先にスピンオフ的な話題を書いてしまった

 今日はエイミー・シャーマン=パラディーノという監督がつくる作品と、その世界観についての偏愛ぶりを書いてみようとおもっていた。それで、頭の中であれこれと構成要素を思考していたら、ちょっと思いついたことがあった。関係する物事から派生したものなので、ひとつの記事にまとめて書こうかな、ともおもったけれど、うまくまとめられないかもしれないから抜き出してみることにした。

 それでまず題材にしようとおもった、エイミー・シャーマン=パラディーノ監督作品は『マーベラス・ミセス・メイゼル』という、Amazonスタジオのオリジナルドラマです。
 主人公のミリアム(ミッジ)・メイゼルはJewishで、したがって家族・友人といった彼女を取り巻く人々もJewishが多い。
 このドラマの始まりは1958年のニューヨークに設定されていて、ミッジはふとしたことから即興話芸スタンダップ・コメディの舞台に立つコメディアンとなり、次第に活躍を広げ有名になる(そしてときには挫けたりもする)様子が、ユーモアたっぷりに描かれている。

 それでJewishについて、またそこから考えたことを今回の記事で扱っている。
 どこかで読んだのが、彼らはその文化的背景によりそれぞれの暮らす国において生き抜いていくため自立する必要があり、そういった事情から優秀であったり成功を収めたりという人物が多く出ている、とかそういうものだった。コミュニティと言っても後ろ盾がない場合は自分達で切磋琢磨するしかなく、励んだ結果としていろんなものを手にしてきた、と、そういうことだった。
 そこでふと思い出したというか思いあたったというか、ここ8年ほどで以前よりぐっと関わりの深くなった、カトリックの人たちをおもった。

 以前ちょこっと書いたけれど、カトリックには小教区というものがあって、それはつまり地域ごとに区分けされた教会ということとおもってもらえたらよい。住まいの中心あたりに教会堂があるとして、そこの教会堂に通う人々で形成されている。私がよくお世話になる(と言っても基本的に仕事上のことであるが)教区での例。
 だいたい毎年5月くらいから11月くらいにかけて、草刈りを中心とした清掃活動が月に1度程度おこなわれる。日曜日の朝8時とかそのくらいから小1時間程度、各々草刈機や、鎌や、ホウキや箕といったものを手にして、協力してやる。これに何度か参加してみたんだけれど、その様子を見ておもったことがあった。
 例えば、開始時間は一応8時としてあるんだけれど、一箇所に集まって「さあ、今から草刈りですよ、やりますよ。あなた方はあちら、我々はこちら」といった挨拶なり合図なり、また担当わけみたいなものは一切ない。チラホラとやってきて、それぞれが目についた場所に移動し(先に来たものは好きなところから、後から来たものは空いたところ)、作業にかかり、黙々とやる。親しい人を見つければ雑談するなどしながら手を動かす。途中で飲み物(ペットボトルのお茶やポカリスエット的なもの)が配られるけれど、「ではひと休み」などとやらず、それぞれのタイミングで好きに補給する。終りの時間が近づき、集められた雑草などがほとんどまとめられ、もう自分がすることはないな、という者から「じゃ、また教会で(釣り場で、公園で)」などという感じで、帰り始める。全ての作業が終り、誰もいなくなる。

 およそいつもこんな感じである。
 つまり、自治会などでありがちな始まりの挨拶や、終ってからの「ちょっとお茶でも(酒でも)」みたいなべたべた感が全くない。といったってもちろん仲が悪いわけではないし、むしろみんな協力的である。彼らが日曜の朝早くから清掃をする理由は、近所の顔色を伺うためでも、自分だけが行かないなどという後ろめたさとかいった動機でもなく、ただ神と自分との問題なのだ、というふうに見えた。

 両親の店があった町の商店街というコミュニティの中で育ってきた私がそれまで目にしていたのは、それこそ自治会長みたいな人が始まりと終りにひと言ふた言述べるとか、主婦同士のゴシップとか、肉屋と米屋の諍いとか(例えばです)、そういう横のつながり及びしがらみだった。
 だけどこの私が出合った、あるひとつの小教区の人たちというのは神と自分という縦の関係性が強く、日本人的ムラ意識とは違うものだった。それでよくよく思い返したり、見回してみたりすると、子ども時代に身近にいた友人などの中で(その当時はもちろん意識していなかったけれど)カトリックの家庭というのは、自分達で事業を起こしたり、生活の手立てをつくり出すとかそういった自立的な傾向があるということだった。
 それは、Jewishの人たちに後ろ盾がなかったみたいに、ムラ意識の強い日本の地方コミュニティにおいて生き抜くために必要な奮闘だったのかな、と、考えた。

 これは日本における(あるいは私の身近における)カトリックについておもっただけで、海外においてのJewishとカトリック(あるいは他の宗教、団体)との関係性となると話は別である。向こうでは、ムラ意識を(もちろん≠ではあるが)カトリックその他的と言えるかもしれない。

 私自身は今のところ特定の信仰を持たないし、今のところはこれから持つ予定でもない。だけどときどきこうやって、その場にいる機会を得たときに観察したいくつかの体験から、いいなと思う事柄が少しある。
 この、ムラ意識なしの付き合いや、その他には「役割」を持って生きていかれる点などがそうである。「役割」というのは、数年前に屋外でおこなわれた記念ミサというのに参加させてもらったときに感じたことで、そういった教会行事がある際には清掃活動などと同様小教区内で協力がされる。そこでは日時などを告知するとか、テーブルや椅子といったものを準備・設置するとか、開催後に婦人部がお茶を用意するとか、ミサの典礼係やオルガン弾きといった、いつくかの役割がある。そのほとんどは高齢者が担っていて、中には子どもたちが独立し、配偶者をなくし、ひとりで生活をしているような人も含まれる。とっくに退職もしているから社会的な役割というのはないんだけれど、教会においては何かしらの役割がある。
 これを見たときには、ふと父をおもった。母とは離婚をしているし、子どもたち(我々)はそれぞれ父とは暮らしを別にしており、店を閉めてから父には「私はこれをやっています」という役割がなくなってしまっていた。もちろん家族はいるにはいるし、友人知人も割といる。だけど、毎朝起きる理由というか、張り合いというか、そういうのがないというのは心細いだろうな、と想像したのだ。カトリックの人たちの、そういう役割や場を目にしたとき、そんなことが頭をめぐった。

 まあ、だからと言って父は自分の選んだ道を歩まなければならないし、私は私のことがあるし、それにカトリックというのも数の減少を免れていなくて、神父も足りなければ信徒も名前だけという実態が多く、色々とみんな大変という点でいうと変わりはないのかもしれない。

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 『マーベラス・ミセス・メイゼル』というドラマ、おもしろいしすごく好きである。私は「泣ける映画を見て泣きたい」みたいなよくわからない心理を持ち合わせてはいなくて、それよりもむしろこういったコメディみたいなのでも、どうかするとぐっと胸に響いて泣けてきたりする。
 特定の人種や宗教などといった理由の他にも、人が生きるという上では大変なことも多いけれど、この監督が描く世界みたいにつまづいて大泣きしても笑い飛ばしながら逞しく過ごしたいものだとおもっている。

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今日の「海の様子」:信号待ちで海面を眺めていたら、魚が跳ねた。何か跳ねるほど嬉しいことがあったのかな? 羨ましい。

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