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バーケンストックのサンダル
この間の記事に、人間に与えられた自由意志についてちょこっと書いたけれど、そこらへんについて続けておもったことがあった。われわれには意図できないことが多すぎてむかっ腹が立っていたために見落としていたようなこと。
結局のところ、それは選ぶか選ばないかというところを指すのかもしれない。神の計画はわれわれの知るところではないけれど、どこかからやってくる試練なり物事に対し振るまう態度は私たちの意志に委ねられる。いくつかのうちどれかを選びとらなければならなくて、ジャンヌの場合でいえば啓示を無視するという道もあったわけだ。彼女は従うほうを選び、一見すると悲劇といえなくもないけれど、あれこれ考えていくと悲劇かどうかなんて誰にも判断はできない。ジャンヌに限らず何にしても、ほんとうのところどうなのか、というところは永遠の謎といって差し支えない。
以前、会話の中でこんなことを言った人がいた。
日常には選択肢が至るところにあって、私たちはそのときそのとき、自分にとってベストを選んで生きているはずで、ということは常にベストの状態なはず。
な、はずなんだけれど、そうでないことは山ほどある。その会話の前後の細かいところはもう忘れてしまったけれど、たしか、そうでない場合にはさてどうしようかという論考だった気がする。その論理はまあ、理屈でいえばそうである。
ある時点でふと立ち止まったとき、そうでなかった場合には考え直さなくてはならない。選択が間違っていたあたりを突き止めて、悔やんだり愚痴をこぼしても仕方がないことで、そこからまた理想的な道筋を見つけるしかない。
このときに、後ろを振り返ってばかりだったり、他の何かや誰かのせいにして文句ばっかり言っているわけにはいかず、つまりこういうときに自由意志の持ちようが現れるのだと私はおもっている。
理不尽なほど意図できないことがたくさんあるこの生のなかで、それでも文句ばかり垂れ流すような態度ではいたくないから、何とか踏ん張ってやっているつもり。でも実はそこらあたりまで神の計画に含まれているかもしれず、そうおもうとちょっと悔しいような気もする、という、とことんひねくれたおもいも湧いてくる。
先日の記事のあと、対談集『「深い河」をさぐる』のほうも興味深く読み終えた。横尾忠則氏のチャネリングに関するあたり、個人的には好みと合わないところもあった。いや、別にそういうものを疑ってかかるわけではないけれど、ふーんという気もちがある。休み休み読んでいる『人生は廻る輪のように(エリザベス・キューブラー=ロス著)』の今日読んだ部分もそんな話題に溢れていて、ちょっと疲れちゃった。
そういえば、以前友人からある本を勧められた。「この本はほんとうのことが書いてあるから、緑紗は好きなはず」と友人は言った。内容は、ある日本人の医師が体験した数回の臨死体験を綴った本だったんだけれど、そのときもやっぱり、ふーんという感じで最後まで読まなかった。
誰のなんていう本だったか、すっかり忘れてしまって、手帳にメモしておいたような気がして探したけれどわからなかった。すぐに読んだけれど、結論をいうとその本は好きになれなかった。
友人が「ほんとうのことが書いてあるから好きなはず」と言ったのは、私の性質として基本的に事実を好むところがあるからで、彼女は占星術的観点からも言ったのである。その性質はたしかにあるんだけれど、私のその好む種類というのはそういうのとは違っていたというわけであった。
臨死体験や、チャネリングで霊を降ろすみたいなのは、興味深い部分もあるけれど、体験として書かれたものをただ読んだり、語られたりしても今のところ実感もないし(体験していないから)、わりと飽きてしまう。
自由意志とは何であるか、考え込んでも結局は結論づけて言いきれることではない。チャネった話題も流し読みしつつ、ある程度のところで留めておいて、現実をむいて自分なりにこつこつやろうとおもう。
自分自身、あるいは神との対話はひみつのままでもいいんじゃないだろうか。
*
今日の「星空」:さっきベランダに出たら星がキラキラしていてキレイでした。この澄んだ冬の空気ももうだんだんとその季節を終えていくんだなあとおもったら、ちょっぴりせつなくなりました。
あ、タイトルは『人生は廻る輪のように』からひっぱってきたんだけど、これってたぶんビルケンシュトックのことですよね。
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