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どうしてこんなに

 せつないふうなタイトルにしてみたけれど、汗かくのでたまらないことを書こうとおもって。

 休日、朝から部屋の掃除をひと通りすると、まだ午前中なのに終ったころにはへろへろ、汗まるけになっている。ひと息というので熱いコーヒーが飲みたいし、掃除も終ったので冷房をかける。肌がさらさらになってホッとする。しばらくすると、冷えてきてちょっと悩むけど冷房をオフにして、それでもいっときは涼しい。時間があるからとプラクティスに励んでいると、また汗がにじんできてしまい、そのまましばらくは続けるけれど、暑さで頭がぼうっとして集中が切れてきて、へなへなと休んでしまう。
 朝から警報が出るほどの激しい雨のあとに晴れたからか、空気がむっとしている。夕刻を待って外に出た。墓参りだ。
 その足で、外出したついでに洗車をした。また汗がでてくる。なんとか拭きあげて車に乗り込み、冷房を効かせ、運転をしながら夕暮れの川沿いを散歩してみようとおもった。日の暮れかけだし、ほんの少しだ。そうおもったけれどやっぱり汗ばんできた。しばらく待って、夜の景色を見て帰ろうか迷いながら、暑さと空腹に負けて帰宅した。

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 父方の墓は、5年か6年だかそのくらい、ほとんど毎月掃除に通っていて、それは昨年墓じまいしたので行かなくてよくなった。母方の墓に行ったんだけれど、そこには今のところ祖父(母の父)が入っているだけだ。前の日に母が掃除を済ませたらしいから、線香をあげて合掌した。数珠を持参するのを忘れていた。
 冬に、トモダチとウォーキングに行っていた運動公園への道の途中にある霊園だ。高台にある墓所から景色を見下ろすと、見渡す限り人んチである。祖父の家系は島原が本家で、島原市内のKというお寺さんにちゃんとした墓を持っているんだけれど、どういうわけだか祖父はここに入った。亡くなったのは11年前だったけれど、生前会話をしたのは両手の指でじゅうぶん足りる程度だ。そのくらい無口だった。家庭にも興味がなさそうだったし、盆だからって帰ってくるんだろうか、どうだろう。
 自分が小さいころは、まだ地獄とかそういうのってこわかった記憶がなんとなくある。保育園や家庭で、ワルイコトをすると地獄に堕ちると絵本を見せられたり話を聞かされるなどして、それなりに怯えていたとおもう。今の子どもたちにも地獄って通用するんだろうか。
 いまの私は地獄がおそろしいとかはたぶん考えていなくて、最近ふとおもったのはこの世、つまり肉体を持ってせっせと生きているこの日々が、あるいは地獄ともいえるのかもしれないなどということだ。暑さは年ごとにきびしくなるし、世界は争いに満ちているし、災害も絶えない。人々はお金や将来の心配をして、働くのや社会の批判に忙しく、いろんなものを見落としているふうにも見える。
 これは暗い未来を嘆いて何かを諦めているとかそういうわけでもなく、ただ地獄がどうということについて考えただけである。教育の中に地獄があった時代に育ったし、盆というと地獄の釜の蓋が開くなどと言われるし、そんな考えを巡らせていて、なんとはなしに生死などについておもいを馳せたとか、まあそういうところである。浮かんでは去る思考の一部。

 先日、使っていたノートブックがほとんど終りかけになった。日記とまでは言わないけれど、日々のちょっとしたことや頭に浮かんだことなどを書いていたもので、こういうのって他人はどうしているのか知らないけれど、私はやっぱり捨てることにした。記録として残して後々見返して便利なこともあるかもしれないけれど、どちらかというと排泄物みたいなものだとおもったからだ。いま死んでしまったら人に見られるんだし、そういうのってなんだか間が抜けているし。

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 汗がたえず流れてくることを書いていたんだった。
 目覚めたときはわりと涼しかったのに、起きあがってカーテンを洗うため取り外したり、洗濯が終ってまた取り付けるなどするととたんに汗が出てくる。
 私は毛髪が多いほうで、それも汗かきの原因のひとつかもしれない。どのくらい多いかというと、美容院に行って使用されるタオルは合計すると10枚近く、ブロウは常にふたりがかり、鍼灸院では「末っ子でこの髪の量はすごいですね」などと感心され(だいたい第一子から少しずつ弱々しくなるそうである)、夏はせっかく洗髪してさっぱりしても、乾かすためのブロウで汗みしょとかそういった程度である。

 汗をたくさんかくのは仕方がないとしても、せめてみっともなく見えないといいのだけど。

ぼんぼり


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