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手すりとベルトパーテーション

 いま従事していることの一つに、ある施設の指定管理の業務がある。先日、そこで案内役や来訪者対応に就いている者から、かなり興奮した様子を含んだ報告があった。Oさんとする。
 その施設を含む複数の建物は現在観光施設及び博物館として公開されているため、いちおうの順路を設けてある。順路を示すものは矢印と文字による看板だったり、便宜的にベルトパーテーションなどを利用したものだったりする。
 そういう順路案内みたいなものはときどき、こちらの心づもりと見た人の受け取りかたにちょっとしたずれを生じることがある。つまり迷う人があったり、取り違えて違う方向に行く人があるということ。
 Oさんは、そのような迷い人に気付くと、誘導をする。

 ベルトパーテーションは支柱と底部がステンレス製のもので、底部にちょっとした厚みのあること、またベルトを見落としてこれらに引っかかる人がいるとOさんは言う。多くが高齢の方で、引っかかってしまった人から苦情を受けたことが何度かあると言った。
 先日も高齢の女性がつまづいて転倒しそうになり、そこに居合わせたOさんに向かって罵声を浴びせたとのこと。Oさんは、前々から管理部門に報告や撤去の進言をしていたのに何の対策も行なわれてないことと、この日の出来事にたまらなくなったらしく、管理部に片足を突っ込んでいる私に意見を持ってきたという感じだった。

 私はOさんから連絡を受けたそのとき出張にでていて、場所が離島で電波も悪かったこと、現場の様子を想像はできるけれど、現場や管理部門によく確認もせずに何かを発言することはあぶないな、とおもって報告を受けつけたこととその日の対応はできかねることを伝え、戻るまで時間をおいた。

 時間をおいていて、思い出した。ピサの斜塔の手すりのことを。

*

 偏愛本のひとつ、『河童が覗いたヨーロッパ(妹尾河童著)』からいくつか引用する。ひとつめは妹尾河童さんが訪問したピサの斜塔で、最上部以外の各階のテラスに手すりがなかったことに驚いて、土産物屋のおじさんに訊ねた話から。

ピサの斜塔を描き、墜落する人間の絵と、「危険だ!」「なぜ、テスリがないのか?」と書き加える。そのノートと絵をみせながら、見ぶり手ぶりのあやしげなイタリア語で聞いたわけ。すると、おやじは変なことを聞く奴だと思ったらしく、両手を開き肩をすぼめて、「どうして? 危ないと思う人は、テラスへ出ないだろう。出る人はそれを承知でやっているはずだがね。この建物は建ったときからテスリがなかったんだよ。昔と違うのは、傾きがひどくなってきたことだけだ。・・・そんなことより、この絵葉書を買ってくれ」といった。僕は一瞬ドキンとした。なんと明快な答だろう。僕の質問と、返ってきた答のあいだにあるズレに、日本人とヨーロッパの人たちの精神構造の違いを、ハッキリ見る思いがした。

『河童が覗いたヨーロッパ』10、11頁

 次に、ミラノのドゥオーモでのこと。

ミラノのドーモはゴシック建築の大聖堂として、その壮大さを知られている。(中略)その華麗なデザインの見事さを、屋上にあがるとま近に鑑賞することができる。
ところが、この屋上から下界めがけて飛び降りる人がときたまあるそうだ。(中略)
いったい教会はこれをどう考えているのだろう、と聞きにいった。こんどの話はヤヤコシイので通訳を友人にたのむ。答えてくれる人になかなか出会えないで、たらい廻しにされた感じもあったが、最後に会ってくれた神父が「公式なコメントではないが」と前おきして、しゃべってくれたことは、
「自殺する人はごく少数である。その人たちの行為があるからといって、聖堂の屋上を金アミで囲って、多くの人たちの目から、美しいものを見る喜びを奪うことは正しいとは思えない。教会が本当にしなければならないことは屋上に金アミを張りめぐらすことではなく、自殺という間違った考えを持つ人たちがいなくなるように、もっと神の教えを説くことである」と、またまた、ここでの答えも違っていた・・・。

『河童が覗いたヨーロッパ』12頁

 長く引用してしまった。いくつかと書いたのはもうひとつくらい引用させてもらいたかったのだけれど、長くなるし、まあこれでおおよそ伝わるかなとおもったからふたつだけにする。

 冒頭の施設に話を戻すと、ここは現在では博物館として公開されているとはいえ、元々は学校や寄宿舎などといった建物として建てられ、重要文化財となっている歴史的建造物である。だから順路をつけた見学に適したものではないし、あれこれ変更を加えることもできない。

 今回受けた報告と、Oさんからこれまで受けたことの意見をまとめて考えてみると、相手が高齢であるということに重点をおいていて、その上それに対し施設側が何らかの対策をして然るべきという意識が働いているようにおもえた。
 そして今回も、ベルトパーテーションがあることが障害になっているから撤去するか何らかの対策をしなくては、自分たちが注意をするけれど人手が足りていない、転んで怪我をしたら責任問題になる、と、だいたいそういう主張だった。

 高齢者だから守らなければならない、という意識があるんだとおもう。
 時間をおくと私はあれこれ思考がわいてくるのを止められない。初めは、現場で面と向かって罵声を浴びたOさんを気の毒におもい、どういう対応が必要かな、という視点で考えていたのだけれど、常々抱えている高齢者を弱者のように扱う態度への疑問に至った。そしてこのベルトパーテーションの件についても、その責任の全てが施設側にあるかどうかというところは注意をしたいとおもった。
 高齢者に限らないが、手助けが必要な人というのは多くいて、だけれどもそれと権利とをごた混ぜにしてしまうことは分けて考えなくてはならない。

 現在われわれが暮らす日本は、数十年前や他の国々に比してわりと安全、平和といえるかもしれない。犯罪や災害もあるし、表面的に見えづらい危険も潜んでいるだろうとはいえ、保護の範囲も広いのではないか。これに慣れると、自分の身を守ることに対する意識が低くなってしまい、何か起こったときに自分の行動や態度を振り返るより先に外側に要因を見つけようとする。そういう傾向が強くなりすぎるのは、ある場合には好ましくない状況を招いてしまうのではなかろうか、というのが私の個人的な意見である。

 ベルトパーテーションは置いてある場所から動くことはない。目の前にある障害物に対し、動いていくのは自分自身であり、近づいて避けなければぶつかるのは当たり前だ。その動かない障害物に注意を向けるのを怠った側に非はないのか?
 来訪者は施設に入場するために料金を支払っている、それは、観覧するためのものであって、施設側が安全を保証するものではないのだけれど、こういうところも混同する人がいるものである。

 物事が起こるときというのはいくつかの要因が重なっていることだから、自分がどちら側の立場の場合であっても絶対安全という対策は取れない。われわれのこの施設内のことでも、もし何かあれば世間から何らかの責めをおうのかもしれない。なるべくなら起きてほしくはないけれど、だからといって貼り紙や人員を増やせば景観が損なわれるし、金銭的負担も大きくなる。(だいたいベルトパーテーションに注意を向けない人は貼り紙にも関心を持たないだろうしね)
 いろいろむずかしいよなあ。

 『河童が覗いたヨーロッパ』は確か80年代くらいに書かれた本だし、ピサの斜塔やミラノのドゥオーモなんかも現代は事情が違っているかもしれないけれど、あれが土産物屋のおじさんの意見だというのが頼もしいというか、すかっとするところがある。
 日本人はいつから自分の身を守ることよりも、守ってもらう意識を強くしてしまったんだろうか。

*

今日の「順路」:美術館や博物館の順路を正しくまわれたことがない気がします。いちおう確認しているつもりなんだけれど、気づくと周りの人と違う順番をとっていることが多いんですよね。見落としている展示もあったりして。アタマのどこかがおかしいのかもしれない。

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