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安易な決めつけはよくない

 ある退屈な会議への参加をしなくてはならなくなって、内容もそうだけれども、そもそもがそういう場を好まないのもあって、気がのらなかった(ぜんぜん)。開始から内心ひんやり冷めきっていたけれど、ひとつだけ反応した発言があった。

 私の人生というのは、恥ずかしながらほとんどなりゆきと言って差し支えがない日々の連続でできている。そのなりゆきのひとつに世界遺産との関わりがあるんだけれど、日本語の「遺産」という言葉がわれわれの日常でどのように使われているかというと、ほとんどが死後の財産を指したり、何かのあとに残されたもの、つまり過去をイメージする使われかたが多いとおもう。それが大きな財産だったりすると、もちろん相続や継承をされ、そこには未来を感じようとおもえば思えるわけだけれど、どちらかというと争いの方面を想起してしまう。超個人的、かつ勝手なイメージではありますが。
 それで、遺産を意味する英語はというと<heritage>で、ここまでは耳に(目に)したことがあって、でもただそれだけだった。今日はある方の発言の中で、この<heritage>という言葉が含んでいる、他の例を知った。
 そこには伝統などのほか、人が受け継ぐもの、さらには天性の何かであったり、運命などといった意味合いで使われることもあるという。
 英語で他に遺産を意味する言葉というと<legacy>というのがあって、こちらは金銭的価値を持ち、古い世代から次の世代に手渡されるような使いかたをされるらしい。一方<heritage>のほうは、金銭に換算できない文化的・歴史的な価値を持ち、前の世代から受け継ぐものというニュアンスを含んでいる言葉なんだそう。
 この説明からすると、立ち位置が違うような印象を受けるけれど合っているだろうか。

 人間の意思の絡まないところからやってきたもの、つまりそれが<heritage>であるとすると、それは運命ともいえるし、さらには選ばれたのだということにもなるのかもしれない。
 発言は短いもので、正確には思い出せないけれど(気が散りやすいもので)、そこに集まった人々が出合うことになった世界遺産について、その発言者はこんなことを言った。
 登録以前にはその推薦書などに「終焉」の文字が多く見出されたのに対し、登録後数年を経てみると、その言葉の使用頻度がぐっと減少していることを見出し、そこに<heritage>という言葉の持つもっと広義の意味合いが重なり、未来への希望を感じている、といったものだった。
 すでに過去となり果ててしまったのではなく、また終ってしまったものでもなく、まだその先に光を見出した思いであるという発言に、「会議なんて退屈だ」などと生意気な意識を持っていた私は、少しだけ恥じいりつつ何かあったかいものを感じてしまった。

 ただそれが、どのような種類の希望なのか、そしてどんなふうに取り扱い、付き合っていけばその光を絶やさずにおれるのか、というようなことになってくると、皆目わからない。
 遺すべきものが何であるか、誰が、どんなふうに、と考えたり、そもそもほんとうに遺すべきものであるのかは、いま自分が立っている地点からは霞んでしまって見えてこない、というのが正直なところ。この時期の景色みたいに、霞んでいてよく見渡せない。

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 先日、自宅から数歩の場所にあるひっそりとして暗い公園の端っこに桜の木が花を咲かせているのを目にして写真を撮った。
 桜よりは梅や桃の花のほうを好む私としては珍しい行為といえる。桃の花なんかは、桜の木みたいに公園脇なんかに植えられるものでなく、山間にぽつぽつと立っているのを遠目で見ることがあるくらいのものである。枝が上に伸びて、ピンクといっても桜の比じゃないくらい紅い色味の花をいっぱいに咲かせた桃の木は、木が(山が)燃えているように見えなくもない。

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今日の「気の毒」:自宅に帰り着いてみるとエレベーターが10階にいたんですよ。1階まで降りてくるのを待ってなくちゃとゲンナリしたけれど、よく考えたらエレベーターって日がないちにち、ただ上がったり下がったりしているだけなんですよね。そう考えると気の毒になって、文句言って(言ってない。おもっただけ)悪かったなっておもいました。

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