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迷える子羊、秋分のレディナダ

 受けもちの業務のひとつで、PC操作に不慣れな人(エンドウさんとする:仮名)にいくつかの説明をしに、ある場所に行ってきた。
 そのプログラムの制作側が作成したマニュアルを持参し、関係者2名を同行という、操作そのもののレベルからするとなかなかゴージャスな対応といえるほどの体制をとった。

 それで実際にやってみると、こちら側の予想からもう一歩困難のある取り組みだった。
 つまり、エンドウさんの実力は、その操作を一度で覚えるのには心細いものであったのだ。

 おおよそは想定していたことだったから、慌てたり失神しちゃうようなことにはならなかったものの、色々と考えさせられた、大仕事であったとも言えた。これから数日後のうちには、エンドウさんにその操作をマスターしてもらえるよう、引き続きの助力が必要である。

 私自身、コンピューターの仕組みや操作に長けているわけでもないながら、それを不慣れな人に説明し、覚えてもらえるよう指示をするのだから骨が折れる。
 この度再認識したことに、できるだけ手を出さない、というのがあった。

 こちらが簡単にできてしまうことを誰かにやってもらおうとするとき、あまりに理解力や応用力がきかないのを目にすると、つい手や口を出したくなる。
 ほら、こうやれば簡単なんですよ、と、やってみせたり、言ってみたりするだけならなんということもない。
 でも、その「カンタン」の仕組みや順序を相手が理解できない場合、やらされているほうは混乱するし、できなければ苛立つだろう。その人の中で、「ここからここまで」の道すじがつながらないと、覚えることがむずかしく、できるようになるまでに至らない。
 現代的には専門用語というほどのものでない用語であっても、知らない人は知らなかったりするし、それを噛み砕いて伝えるというのは、まあなかなかの労働だった。

 これはごく最近の出来ごとのひとつ。

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 顔見知りではあっても、わりに長い時間(例えば1日のうちの8時間程度)を過ごしたことのない、私よりも若い女の子と行動を共にすることがあった。その中で時折、雑談的な会話もした。
 彼女の話すことを黙って聞いていると、ちょいちょい悩みのようなものが口から出てくる。私にアドバイスを求めているのかもしれない。
 そう思いつつも、放っておいたらそのうち結論に至ったり、別の話題に移ったりする。彼女と別れてから、いつもの癖で思考が動いてしまうのをやめられない。

 彼女に限らず、人というのは何か決められない物事に出合ったとき、外側に答えがあると思いがちなところがある。自分がまだ知らないことを、年長者や立場の違う人なら、どうしたらいいか知っているのではないか、なんとなく、無意識に、そう考えてしまっているところがある。
 でも大抵の場合、自分のことに関する答えは自分の中にしかないから、その考えはとても不毛な願望だと思うのだ(私は)。

 そういう私だから、話題を持ちかけられたらふんふんと聞きはするけれど、放っておいてみると、いつの間にか彼女は持ち手の中からどれにするのかを選んでいる。あるいは、タイムリミットがまだ先で、いま決定をしなくていい物事なら後回しにしている。
 そばで見ていた時間を振り返ってみると、だいたいそうやってある問題(月見うどんか肉うどんか、とか)にはカタがついて、ある問題は先送りにされた。

 これもごく最近の出来ごとのひとつ。

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 数日の間に上に述べたような体験をして、そばにいてただ見守るという態度に必要とされる忍耐のことを思った。
 自分の経験や立場からものを言うのは簡単ではあるけれど、それはあくまで私の場合であることを相手に了解していてもらわないといけない。
 不得意なPC操作を、最終的にどの手段で体得するかとか、選択肢のうちどれにするかの最終決定は、その人自身に従ってもらうより他はないのだ。

 このふたつの出来ごとにおける関係性よりももっとグッと距離が近い人との間でも、ふとそんなことを感じた。
 その相手に好意を寄せている場合、その人の決定がどんなものであれ、自分のワガママや都合からものを言わずにいる態度を示したい。
 それは、私が何か我慢をして従うとかそういうことを言っているのではない。相手の人生における決定に、主観的な視点からケチをつけたりしないことを言いたい。(むずかしいな。伝わるかな)

 そういう色々を考えていたら、この間書いたレディナダの色彩言語が浮かんできた。
 もう私は裁かない、というあのメッセージは、人生における信頼の大切さを含んでいると思った。
 目の前の、そこにある物事を受け入れる強さみたいなものを感じたのだ。自分を信頼し、心に従った生き方をしている人は見ていてとても気分がいいものだし、そういう人が他者を信頼したときというのもまた見ものであると思う。ごく個人的な意見だけれどそう思う。

 そしてそれは並大抵のことではないとも思う。

▽レディナダの記事。

 この世界に唐突に生まれ落ちた私たちは、いったい何を軸にして生きていけばいいのか、よく考えてみるととても不安定な存在である。
 自分の意思で、場所や時代や性別を選んだわけではなく、気がついたらここにいる私たち。ちょっと待ってよ、と言いたくなる日だってあるけれど、時間や他人は待ってくれるはずもなく、それがとても残酷に思える瞬間もある。

 肉体という境界線で分けられた、一つひとつの存在の間を繋ぐ信頼を育むのが容易であるはずはないよな、などと感じながらも、(自分を含めた)誰もがそんな願いを抱いていることが、いとおしくもある。

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今日の「予告」:お待たせいたしました、次回は父のジャズマガジンを更新します(たぶん)。

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